カイト・カフェ

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「しかしそれでもよかった」~才能も美貌も誰かに持って行かれたけど、幸せだけはここにある

 オリンピックの体操男子、悲願の金メダルとか。ほんとうに喜ばしい次第です。内村航平選手などは団体金メダルさえ手に入れば他は何もいらないといった勢いでしたから、ほんとうにうれしかったと思います。心よりおめでとうを言いたいと思います。

 ところで、オリンピック選手たちはなぜみんなああも美しい顔立ちをしているのでしょう。加藤凌平選手なんてモデルか俳優にでもしたくなるような美形です。内村だって白井だって美しいい。その他の選手もそれぞれ味のある美しさを誇っています。
 体操男子だけでなく他のアスリートたちも(多少の例外はあるにしても)、美的平均値は一般よりかなり高いところにあるように感じるのです。

 答えのひとつはもちろん、すべてを投げ打ってひとつのことに集中した人間は美しくならざるを得ないというものです。醜いものを見続けたりよこしまな考えに慣れた人間の目は濁り表情は暗くなって当然、しかし美しい目標に身も心もささげた者の目は当然輝き表情は明るく光る。
 少し科学っぽく言えば、十二分な運動によって顔の筋肉も引き締まり、常に発汗を繰り返すことで皮膚も代謝が進み張りも輝きも溢れ始める、大量のアドレナリンが涙腺を刺激し目は涙で薄く光ってまるで輝いているように見えるということになります。
 しかしそうした個人の努力によってもたらされるものを差っ引いても、眼鼻の形としての美形は確かに存在するような気がします。

 昔はそうではありませんでした。
 1964年の東京オリンピックにおける伝説の「東洋の魔女」たちはほんとうの魔女のように恐ろしかった。それが今やほとんど美女軍団です。
 男子体操に話を戻せば1964年の男子チームはユニフォーム脱ぐと普通のサラリーマンに見えました。現在のアイドル・芸能系とは違います。
 世の中の人たち全員が美しくなった、美しくあろうと気を使ったり努力できるだけの余裕を持つようになったということはあります。しかしそれだけで済む話でもありません。天賦のものがひとつではなくなってきているのです。
 冬のオリンピックでは羽生弓弦、浅田真央。オリンピック以外で言えば野球の大谷翔平
 大谷の投手としての二けた勝利と二けた本塁打はべーブルース以来だそうです。160kmを超える速球を投げ、高校通算56本塁打、1塁到達4.1秒の俊足。193cmの長身と甘いマスク。せめて性格くらいものすごく悪ければいいのですがそういった噂も聞きません。
 さらに別な分野の話をすれば又吉直樹・厳しいお笑いの世界で第一線にいるような人は芥川賞など取ってはいけないのです。それぞれの世界で必死に努力をしている人がいるのですから。おまけに又吉は髪の毛を整理するとかなりのハンサムです。

「天は二物を与えず」というのは真っ赤な嘘です。世界には神様から二物も三物も与えられた子がいくらでもいるのです。そのうちの数%が、今日、リオデジャネイロの選手村に集まっているだけで、神に選ばれたとしか思えない人はいくらでもいます。

 しかしその一方で何も持たずに生まれてきた、例えば私のような人間もいます。60年以上しっかり見てきましたが、才能らしいものはどこにもありませんでした。
「何という神の不公平な差配!」
 私の心の一部はそう叫びます。しかしその一方でこうも思うのです。
「けれど二物も三物も与えられた者が必ずしも幸せになるとは限らない」
 これは私がいつも心の中で呟いてきたおまじないのうような言葉です。

 どんなに美形であろうと才能に恵まれようと、それが幸せを保証することは絶対ない、幸せは別の要素から成り立っている、それが私の確信です。
 そしてその確信も、何の才能も美貌もないが確かに人生はよきものだったと思える私自身の経験から生み出されてきたものなのです。