カイト・カフェ

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「個人に寄せて個人から見る」〜有志の人々、テロリスト群像④

 バングラディシュ人質襲撃事件の容疑者の父親は、
「恐ろしい銃を持って笑っている・・・、とても美しい子だった。とてもいい子だった。信じられない」と言いながら、インターネットを通じて過激思想に染まったのではないかと話した」といいます(TBSニュース)。
 しかしインターネットで過激思想に触れれば必ず過激派になるというわけではありません。ISの宣伝ビデオは非常によくできていると言いますが、宣伝さえうまくやれば必ず期待通りの反応が生まれるとしたら、日本でACの公共広告に繰り返し見ている私たちは、あっという間に全員が善人です。そんなことはないでしょう?
 影響というのは彼我の対応関係の中に生まれるものです。こちらに反応の要素がなければ何の爪痕も残さずに通り過ぎてしまいます。
 バングラディシュの裕福な家庭に生まれたエリート青年たちの、心の奥底の何が過激思想に反応したのでしょう。彼らの内で渦巻いていた社会に対する不満でしょうか? それとも国の将来に対する真剣な問いだったのでしょうか? あるいはすべてに対して投げやりで「このまま人生を終わらせたい」と感じるような個人的な悲観主義でしょうか? さらにあるいは単なる後先考えない憂さ晴らしだったのでしょうか?
 それこそが私たちが“専門家”に求める答えです。
 その答えのあり方ひとつで事件の見方・考え方、容疑者に対する印象、私たちが国家としてあるいは個人として取るべき態度・具体的対応策、それらのすべてが違ってくるのです。

 不幸なことに、パリの事件についてもベルギーについてもトルコについても、犯人は特定されたのにそこまで深い分析は出てきません。きっと現地では詳細な調査が行われたのでしょうが――数万キロメートルも離れた外国のことです――それらがまとめられる頃には私たちは忘れてしまっています。何の対策も打てません。

 同じことは教員不祥事について考える上で繰り返し感じていることです。つい先日もお話ししたばかりですが、個人に焦点を寄せた「不祥事研究」ないし「ケーススタディ」はほとんど行われていないのです。これでは何の対策も打つことはできません。

 先日、中京圏では知らない人がいないという有名タレントが、自分の名前をかぶせたラジオ番組の最中、女性の同僚タレントに殴る蹴るの暴力を働いたという事件がありました。20年近く続いた番組は即刻終了です。
 分別盛り、そう言っていい年齢をとうに過ぎた67歳。それが19年間も続いた(彼にとっては)珠玉のように大切な番組を一瞬にして葬り去ってしまったわけです。
 もちろん人間にはどんな犠牲を払っても成し遂げなければならないこともあります。しかしこの事件からそこまで思いつめた事情はさっぱり見えてきません。
 ところでこの問題を扱ったニュースバラエティの最中、一人の女性タレントが「更年期?」と呟きました。一瞬吹き出しそうになりましたが考えてみれば斬新で可能性ある仮説です。
 あるサイトに「男性更年期障害は、早い人では30代、遅い場合は70代になってから発症することもあり、個人差が非常に大きいのです」とありましたからギリギリ対象になるかならないかです。しかし可能性としては考えなくてはいけません。マスコミも本来はそこまでやらなくてはならなかったはずです。

 一昨日、政務活動費をだまし取ったとして詐欺等に問われた元兵庫県議の野々村竜太郎被告に、懲役3年執行猶予4年の有罪判決が言い渡されました。これもニュース・バラエティでみると相変わらず「なんだコイツ?」といった感じの半分お笑いネタです。
 しかし振り返ってみるとあの号泣会見も出廷のたびに変化する様子も、笑って済ませていいものかどうかほんとうに疑問です。誰一人心配しない。
 私は、彼は支えられるべき人だと思います。もしかしたら一人で記者会見させたり裁判に立ち向かわせるのは気の毒な人かもしれません。
 けれど少なくともマスコミ関係者の中にそうした観点から野々村元議員を見ようとする人はいません(もしかしたらそうした観点から番組をつくると視聴率が稼げないと踏んでいるだけなのかもしれませんが)。

 いずれにしろこれだけメディアが数多くあり、テレビもラジオも新聞も雑誌もあるのに、個人に寄せて個人からものをみるというやり方がさっぱり進んでいかないのはなぜでしょう?
 心からもどかしく思います。

(この稿、終了)