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「籠城戦は絶望的な戦いではないだろう」~崩れかかった熊本城を見ながら②

 なぜ戦国武将たちは城をつくり、最後には籠城しようと考えたのか。別の言い方をすると、自国領内深く攻め込まれ城に籠った人々はその先どうするつもりだったのか――。
 答えは簡単です、待っていればよかったのです。

 敵が本気で城を攻め落としにかかるならむしろ目っけものです。
 城はそれ自体が巨大な迷路、繰り返す罠ですから来る敵、来る敵、面白いように倒せるはずです。石垣を登って来る者があれば石でも煮えたぎった油でも糞尿でも何でも落とせます。そこまでしなくてもそもそも登るために両手の塞がった兵ですから倒すなど簡単なのです。
 城内にはいたるところに鍵の手(直角に曲がった道)があり、乗り越えるべき塀があり、堀があり橋があります。そのすべてが守る側に有利につくられています。侵入者に都合よくなんかできていません。
 つい先日のNHKテレビ「真田丸」でやっていた第一次上田合戦は、上田城に籠った真田勢2000を徳川方7800が力ずくで潰そうとしたものですが、真田の死者が20〜40名だったのに対して徳川方は1300も失い、ほうほうの体で引き返していきます。
 こんなふうに城をめぐる攻防戦というのは圧倒的に防御有利で、攻撃側は相当な覚悟と兵力がないと踏み切ることができないのです。
 こちらが籠城したらあちらはそう簡単には攻めてきません。

 それでは持久戦。城の中の兵糧がなくなるまでじっくり待ちましょうということになりますがそれも簡単にいかない。
 とりあえず兵の大部分は半農ですから田植えだの稲刈りだのといった農繁期になると地元へ帰らざるをえません。越後のような雪国だと早めに帰国しないと領国から雪によって締め出されます。つまり半年も一年も包囲を続けるわけにはいかないのです。
 これは籠城側から見ると期限があるということです。いつまで我慢すればいいのか見通しがもてる、包囲は必ず解けるということになります。籠城もし甲斐があります。
 さらに籠城戦には経済的な問題もからみます。

 先の第一次上田合戦を例に、史実とは異なり兵糧攻めになったと仮定しましょう。
 外の徳川勢は城を二重三重に取り囲んでコメの一粒も入らないようにして待ちます。城内の2000人に対して7800で完全に封鎖できるかどうかは疑問ですが、仮にできたとしてどちらが有利か。

 もちろん城内では備蓄米を食いつぶして生きるしかありません。しかし中の2000が食つなぐのも大変ですが、外の7800を食わせるのも容易ではありません。一食を現代の学校給食並みの300円と仮定して一日5000円ほどの日当をつけてひとり6000円かかるとしましょう。7800人で日に4680万円。それが3か月(90日)に及ぶチキンレースをしたとすると、ざっと42億1200万円もかかるのです。
 城内に籠る側は(防衛戦ですから)日当を払う必要はなく、食料も最低で済ませますので日に600円として2000人90日、ざっと1億800万円ほどです。しかも備蓄米ですから年に換算するとさらに少ない計算になります。7800人分を自国から運搬したり現地調達しなければならない侵略軍に比べたらずっと楽なものです。

 城を巡る攻防戦というのは攻める側に相当な負担をかけます。したがって侵略軍が意図を放棄して自国に帰ればその戦いは籠城側の勝ちです。人的損失はそこそこでも経済的には大打撃を与えて撤退させるわけですから、引き返させるだけも圧勝ということになります。
 ベトナム戦争において「北ベトナムが勝ってアメリカが負けた」というのもそういう意味で、アメリカはたいへんな軍事費を使い、時間を使い、5万8千人の死者と33万人に及ぶ負傷者を出しながら何ひとつ手に入れることなくかの地を離れることになりました。まさに惨敗でしょう。

(日本の戦国時代にもどって)しかし籠城戦は守る側が圧倒的に有利という時代はやがて終わります。
 ひとつには兵農分離が進んで職業軍人の数がどんどん増えたことです。特に織田信長軍において顕著でした。職業軍人が主力になると農期に関係なく戦争が継続できます。城の包囲が長引いても領国に帰る必要がないのです。

 第二の理由は戦国時代の最終盤に起った圧倒的な経済格差です。
 籠城側が次々と敗れた豊臣秀吉の中国遠征、このときの秀吉が用いた兵力は2万です。それだけの人数を秀吉はいくらでも食わせることができた、食わせるだけの財力が信長から渡されていたのです。
 何か月チキンレースを続けてもまったく困らない――そういう勢力を相手にすると籠城作戦は完全に効果がなくなります。その意味でも信長は歴史を変えたのです。

 そして最後に、戦場に大砲が持ち出され、兵力を失わず城の本体を破壊することができるようになったこと。
 大阪夏の陣が終わると、たとえ天災で天守閣を焼失しても再建しない例が増えます。平和な時代が来たからとも言えますが、大砲の圧倒的な破壊力を見た後では籠城の可能性はほとんど論議されなかったのではないかと思います。
 これも信長の敷いたレール上に起きたできごとです。

 ちなみに「真田丸」の六文銭死出の意で、決して真田が金の亡者だったことを示すものではありません。しかし信長の旗印の永楽通宝からは守銭奴の匂いがします。
 全国有数の穀倉地帯である尾張に生まれ、美濃・越前と米どころを次々と押さえ、当時の経済の中核都市堺を飛び地のように制圧してしまう織田信長。永楽通宝の旗印はそんな戦国屈指の経済通の面目躍如といったところかも知れません。

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