「桜」

 少し気を許していたら早い桜はもう三分咲きです。びっくりしました。

 私の住む山国は桜前線の到達も遅く、例年なら15日過ぎ。記憶にある限り最も遅かった満開は私が教員になった三十数年前の5月1日です。

 はっきり覚えているのはその日が遠足で、超がつくくらいに有名な桜の名所に行ったのに、満開の桜の下にはほとんど人がおらず、ゆったりと花を愛でながら弁当を広げたことが強く記憶に残っているからです。聞けば十日ほど前までは連日大量のツアーバスががやってきて、まだ固いつぼみを見て回る観光客で溢れんばかりだったそうですから、プロでも読めない異常気象だったのでしょう。5月1日はそれくらい異常でした。しかし今年の4月上旬の桜というのもやはり尋常ではありません。

 しかしそう思ってつらつら考えると、20年ほど前は新入生の生活が落ち着き、給食もうまく運営できるようになった頃に「お花見給食」という企画があって、全学年、好きな桜の木の下で花に囲まれながら昼食を食べたものです。それが10年ほど前には開花に間に合わなくなり、「『お花見給食』じゃなくて『お葉々見給食』ですなあ」などと冗談を言うくらいの葉桜になっていましたから、やはり温暖化はどんどん進んでいるのでしょう。

 あと10年もすれば私たちの地方が「桜吹雪の下での入学式」になり、都会では「桜吹雪の下での卒業式」「葉桜の入学式」ということになるのかもしれません。

 それもそれでいいものでしょう。卒業式も入学式も人生の節目の大切な行事です。しかしいつまでもこだわるものではなく、さっと咲いてさっと散る桜の季節が似合っています。

 桜の季節になると決まって思い起こす二つの文学があります。

ひとつは西行法師の短歌、

「願わくは花のもとにて春死なむその如月の望月のころ」

 西行は実際に願いをかなえて亡くなったそうです。

 もう一つは梶井基次郎の短編「桜の木の下には」。

 その冒頭、

『「桜の樹の下には屍体が埋まっている!

これは信じていいことなんだよ。何故って、桜の花があんなにも見事に咲くなんて信じられないことじゃないか。俺はあの美しさが信じられないので、この二三日不安だった。しかしいま、やっとわかるときが来た。桜の樹の下には屍体が埋まっている。これは信じていいことだ』

 そのおどろおどろした書き出しは、もうそれだけで十分です。文章というのは言葉の組み合わせだけで何かを醸し出すものですが、私は梶井基次郎に接するたびに、その恐ろしい魔力に酔いしれる感じがします。

 今夜は無理でしょう。しかし数日すれば近隣の桜も満開。誰も見に来ないような山間の桜を探し、車の前照灯でライトアップさせた私だけの薄桃色を愛でながら、根の下に埋まっている死体のことを考えたいと思います。

 怖いから、もしかしたらすぐに帰ってくるかもしれませんが。