「ちょっと心が闇」〜教員人事が発表されて

 先日、新聞に教員人事の一覧が載っていて、さまざまに考えることがありました。
 ああ、あの人はこんな地方に行ったのかとか、教育庁の仕事をするようになったのかとか、おやおやもっと若いと思っていたのにもう定年退職なのかとか――思いはさまざまです。特に昇任人事にについては心穏やかではありません。
 この人もいよいよ校長かとかあの人が副校長になるのかとか、そういったことです。
 教員になるような人は皆真面目でよく努力しますから誰が管理職になってもよさそうなものですが、おのずと力量に差はあります。昇任者の欄に、当然名前のあるべき人がおらず、そうでもない人の名前を発見するのは、何とも歯がゆい思いです。

 言うまでもなく教職は野心家の選ぶ職業ではありません。富や名声が欲しい人は他に行っているのであって、教員になるのはそれぞれ子どもが好きだったり教えることが好きだったり、あるいは数学・社会・国語といった教科に惚れ込んでいたり、教育という仕事が価値ある活動だと信じ込んでいたりする人ばかりです。もちろん、公務員だから安定していいとか、子ども相手だから苦労がなくていいとか、長期休業があるからいいとかいった理由で教職を選ぶ人もいますが、そういった人はたいてい手痛いしっぺ返しにあいます。子どもはそんなに甘いものではありません。いつかそれなりの教師に成長していくしかないのです。

 ですからこの世界で若いうちから教務主任、副校長、校長と出世していこうという人はほとんどいませんし、そもそもナベブタ社会(広範なヒラ教員の真ん中で鍋蓋のツマミよろしく管理職が乗っている)と言われるような構造ですから、管理職への意欲の起きにくい世界なのです。私などは若いころ、管理職というのは教育の第一線を退いてボンヤリ立ち尽くす愚か者だと思っていました。

 しかしそんな私が、少しだけ考え直す機会が二度ほどありました。ひとつは三十代の半ば頃、とても尊敬していた先輩と話をしている最中のことです。どういう経過だったのか、
「先生、本気で校長になりたいと考えたこと、ありますか?」と訊くと、
「そりゃあなりたいですよ」と答えます。
 当然「なりたいなんてこと、あるはずがないじゃないですか」とくると思っていたのでびっくりしていると、
「だって自分の考える教育理念を十分に実現しようとしたら、校長になるしかないじゃないですか」
 ああ、なるほどと思い、“そういうことならオレも校長になってもいいかな”と思ったりもしました。それが一回目です。

 二回目は、それから4〜5年たってからのことです。
 あまりにも奔放にやっている私を心配してか、これも尊敬する別の先輩がこんな話をしてくれたのです。
「別に校長・副校長になる必要もないし、そのために頑張るというのも教員らしくないけど、あえてその道を塞ぐこともないと思いますよ。
 人間は案外弱いものです。周囲が次々と管理職になって行く中で指をくわえて見ているのは、一定の年齢になると案外しんどいことなのかもしれません。それにもっとしんどいのは、自分より年下の、力のない管理職の下につくことです。“将来、あのバカが校長になっても、その下で前向きに働く”。その覚悟がないなら、管理職への道は一応開けておくのがいいかもしれませんね」

 私は教育学部の出身でもなければ、ずいぶん回り道をして30歳で教職についた人間です。出世という面から考えるとかなり不利な経歴です。しかしだからこそ校長にならなくても平気でいられる――「ま、教員になるのも遅かったし、そもそも10代のころから教員を目指してきたきちんとした教員ではないからいいかな」といったエクスキューズのある人間だ思っていました。
 将来、管理職になることはないだろうし、ならなくてもかまわないし、なる必要もない――そう思っていましたが、先輩の口から出た下品な表現、
“将来、あのバカが校長になっても、その下で前向きに働く”
は小さな刺のように心の奥底に突き刺さったままでした。私はそうしたことにも平気でいられるほど強い人間ではないのかもしれないと思ったからです。

 新聞の昇任人事の欄を眺めながら多くの先生の顔を思い浮かべ、ああ、あのA先生もB先生も、C先生も結局管理職への道に乗らず、いつか“あのバカ”が校長になったとき、その下で働くんだろうなと思うと心がひしゃげます。
 ただし、もちろん、A先生もB先生もC先生も皆、私よりはずっと人格者ですからこんなひねくれた考え方はしないでしょうが。