カイト・カフェ

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「成人の日あれこれ」

 昨日は成人の日でした。
 各地で記念行事が行われ、例年のように一部の自治体ではアホな子どもたちが暴れまくったり、ほとんどの地域で美しく着飾った娘さんやぎこちない背広姿の少年たちが、公設同窓会よろしくうれしそうに交歓する様子がテレビに映し出されていました。
 暴れる子どもたちについては、自分がヒーロー・ヒロインになれる機会を成人式と結婚式くらいにしか想定できず、みんなとワイワイできるのいは成人式だけと精一杯めかしこんで騒いでいるようで何とも哀れな感じがしないわけではありません。
 非行文化というか不良の文化は非常に早熟で「二十歳になったらあとは“若けェ連中”に譲って、オレらは引退ネェ」とか平気で言いますから、成人式はその総仕上げ、卒業式、打ち上げといった感じなのかもしれません。
 私自身は二十歳のとき、まるっきりのヒヨコで将来に不安しかありませんでした。しかし今も多くの新成人はきっと同じで、良いにつけ悪しきにつけ孤独と不安の中で静かに今日を迎えたはずです。大騒ぎをして、ひと時代を終えようとするのとはまるで違うのです。

 さて、今年の成人式は昨年までと全く異なる点があります。それは成年となって手に入るものの中から選挙権が落ちてしまっていることです。
「18歳選挙権」についてはもちろん賛成で、これまではせっかく義務教育と高校教育で歴史と政治を学び選挙の重要性を教えても、二十歳までの2年間にすっかり冷えて興味を失ってしまうということがありました。それが直結するわけですから投票率を上げるうえで非常に有効な気がします。
 選挙管理委員会が繰り返し「投票に行きましょう」と呼びかけるより、高校の先生が「明日投票に行けよ」という方がよほど効果的です。おまけに同じ高校3年生なのに誕生日によって行ける子と行けない子がいるという差別は、一方で特権意識を、他方で羨望を生み出すかもしれません。ですからその意味でも投票行動を動かすことになりそうです。
 候補者も若者向けの政策を次々と生み出すことでしょう。それも悪くないことです。

 しかしそれにしても、選挙権が18歳に移行してしまうと、「成年」の意味、成年に対する感覚はどう変わっていくのでしょう?

 制度上、二十歳になって手に入るものはこれまでも「選挙権」「飲酒・喫煙ができること」「ローン契約などが結べること」「競馬やオートレースの馬券・舟券を手に入れること」の四つくらいしかありませんでした。そこから選挙権が落ちるということは要するに「明日からは大人にしかできない(あまり勧められない)ことができるようになりますよ」というだけのことになってしまいます。
 もう成人式に選挙管理委員長が出てきて、「皆さんは今日から素晴らしいものを手に入れることになります」といった挨拶をすることもなくなります(今年はどうだったのだろう?)。

 こんなことならいっそのこと全部18歳まで引き下げ、
「酒もたばこも競馬も競艇も風俗も全部OK、運転免許も劇物や火薬の扱いもできるようになります。その代り青少年として保護されることもなく、危険業務や深夜業務に就くこともあるんだよ」
 そんなふうにしておけばよかったのです。

 運転もできれば劇物・火薬も任せられる、政治的判断も労働者としての判断もできるのに酒やたばこや競馬・競艇については信用ならない『こどな(子どもと大人の中間)』――そんな妙なものを想定するから「成人式」も変なものになってしまうのです。