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「加害者はいかにして加害者となっていくのか」③〜マイレジューム

「本人が言ったから」というのは必ずしも真実の保証にはなりません。もちろんウソをつくこともありますが、それ以上に普通の人間にとって自分を正確に語ることは難しいからです。もし世の中の人の半分でも、常に正しく心情や感じたままを表現にできるようだったら、社会の問題のほとんどは消えしまうのかもしれません。

 いわゆる「川崎市中1男子生徒殺害事件」で、加害少年の言葉としてマスメディアに紹介されているのは以下のようなものです。 

「(以前の暴行を)チクられたのでやった」
「(被害者少年)が慕われていることに、むかついた」
「(被害者少年)のためにこれだけの人が集まったと思い、頭にきた」
「(自分を)先輩として立てなかったことに不満を持っていた」…
(被害者の首前部には、顔を上げさせて切ったとみられる横一線の切り傷があり、首の後部にも2カ所の目立った切り傷があった)
「(仲間の)少年が『カッターナイフがある』と差し出したため使った」
「途中で止めてほしいと思ったが、(仲間に)『もう止めるのか』といわれ、殺すしかないと思った」
「カッターで切りつけているうちに殺意がわいた」
「手を合わせて心で謝った」
「すごい(多くの)人が悲しんだんだな。えらいことをやったんだと思った」

 聞こえてくれ言葉の多くは、アイツがああしなければ、コイツがこうしてくれればという、主体性のない、受け身の、恨み節です。裏切られた、無視された、自分とはあまりにも境遇がちがう、それらは彼の被害者意識を語っているにすぎません。
「(被害者少年)のためにこれだけの人が集まったと思い、頭にきた」
は一面の真実ですが、「そいつらのために謝らされた(その原因をつくったのはアイツだ)」という言葉は浮かんでこなかったようです。しかしその思いはあったはずです。

 けれどそれだけではなかなか殺人にまでは至りません。この事件は「いじめ」に繋がる方向性を持っていますが「殺人」に向かうほど強いものではありません。ここから先は偶発的でしかも必然的な別の動きなのです。
 同伴者が「もう止めるのか」と問わなければそうはならなかったでしょうし、言われた方が加害者少年のようなタイプでなければその場合も殺人には至りませんでした。
 しかし彼まはまさにそういうタイプです。いったん煽られてしまうとなかなか「降りられない」のです。そのまま事態はエスカレートするだけです。
「おまえ、タバコやるだろ?」とか「まさかマリファナやったことない、なんてことねえよな」とか「このまま引き下がるなんてことないよな」とか言われたときはみんなそうです。ロクでもないそういった言葉が、いちいち決定的な足かせになって引き返せなくなってしまうのです。
「途中で止めてほしいと思ったが」というのはウソ偽りのない心情でしょう。

 深刻ないじめの現場でも、加害者の一部は心の中で手を合わせたり泣いたりしながら暴力を続けている場合があったりします。首謀者の中には、そんな立場に立たされたことを心底恨みながら、それでもなお新たな「いじめ」のアイデアに知恵を絞ったりしていることがあります。すべて人間関係がそうさせているのです。

 「非行」や「いじめ」には、どこかに「引き下がれなくなる結節点」があると言えます。そこを超えてしまうと、周囲も大人も、そして本人自身も、その動きを止めることはなかなかできないのです。