カイト・カフェ

毎朝、苦みのあるコーヒーを・・・

「いのちのこと」8〜その日の午後b

  病院についたとき、妻もすでに学校に戻り、シーナは一人でベッドに体を横たえていました。
「大変だったね。でも赤ちゃん元気で良かったね」
 そう言うと、
「見たの?」
「ああ、保育器に入れられてからシーナが分娩室を出て来るまで、たぶん15分か20分くらいあったよね。その間ずっと見ていた。元気よく手足を動かしていたよ」
 するとシーナはゆっくりと私から顔をそらし、寝返りを打って向こう側に体を向けると、意外なことを口にします。
「いいなあ」
 え?と私は聞き返します。「シーナだって見たじゃない」
「見たことは見たけど、コンタクト外しちゃっているし眼鏡も持ち込んでなかったから、ホントはほとんど見えていなかったの」
 それでようやく合点がいきました。

 車椅子で分娩室から出て新生児室の前を通り過ぎるとき、あれがシーナの赤ん坊だと教えてあげたのに、弱々しい声で「かわいい」と言っただけであまりこだわらなかったのは、ショックから回復していなかったと同時にほとんど見えていなかったせいもあるのです。
「じゃあ、これから見に行こう」
「時間外だから無理よ」
「無理じゃない。生んだ母親なんだから時間外も何もないさ」
 シーナは振り返ってまっすぐ私を見ようとしました。

 そこへちょうど看護師が現れて、身体の様子を聞き始めます。
 いくつかのチェック項目に答えた後、私が口添えするまでもなくシーナは言います。
「それと、お産のあとすぐに赤ちゃんが連れていかれてしまって、よく見ていないんです。できたら会ってみたいんですけど」
 看護師は、
「車椅子なら移動できそうですか?」と訊ね、シーナがうなづくと、
「じゃあ確認してきます。会えるといいですね」
 そう言って病室を出ていきました。

 シーナと赤ん坊の、改めての対面は二枚のガラス越しでした。一枚は新生児室の、もう一枚は窓辺に寄せられた保育器のガラスです。
 シーナの子は少し疲れた様子でしたが、時々手足をうごかしながら、こちらを見ています。保育器を窓際に移動する際、看護師がそのように向けてくれたのです。
 車いすに腰掛けて見上げていたシーナは、両腕で体を持ち上げると立ってガラスに体を寄せ、自分の生んだ子を見下ろします。
「かわいい」
 周囲への遠慮もあって小さな声でしたが、先ほどよりははるかに力強い口調です
「かわいい」
「かわいい」
 なんども口にしながら、涙がその頬に伝って落ちてきました。細く緩やかな涙でした。
 

                               (この稿、続く)