カイト・カフェ

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「ローズマリーの赤ちゃん」〜児童館の子どもたち②

 今の仕事に就く前は「毎日保護者と顔を合わせるのは毎日プレッシャーをかけられるようで気が重いなあ」とか思っていたのですが、そんなことはまったくありません。
 たいていの保護者は“とにかく預かって”もらえればいいのであって、安全にケガなく返してくれればそれ以上は望んだりしません。もちろん中には「家ではまったく勉強しないので、せめて児童館では宿題くらいはやらせてください」とおっしゃる方もいますが、家で勉強しない子は児童館でもやらない子です。
《ご自分にできないことを、人に望んではいけません》
 そう心の中で呟きながら、しかしオクビにも出さずニコニコと「努力します」と答えておきます。

 学校とは異なり、毎日保護者の顔を見る機会がある――そのことの影響は、しかし確実に私の中にあります。それは子どもの成長を“家族”という枠の中で見る習慣がついたということです。学校にいる間は「その子がどう育つか」「その子の将来はどうなって行くか」ということが中心的課題だったのですが、「その家族はどう生きていくか」「その家庭はどうなって行くか」ということが常に心にあるようになったのです。

 もちろんよくできた、素直で前向きな、誰にでも愛されるような子の家庭は問題ありません。私の意識の中からも消えてしまいます。
 病気を抱えている子や、発達障害などでしょっちゅう周囲に迷惑をかけているような子の親御さんも、ある意味、問題がないといえます。なぜなら課題がよく見えていて、覚悟もあれば、行うこと・行くべき方向がよく見えているからです。たいへんですが、不安にはなりません。
 そうではなく、私のこころの中に澱のように落ちているのは、大きな問題の芽が見えながら、十分な指導や対応がされないように見える子どもたちです。将来ほぼ確実に大変なことになる、親も本人も塗炭の苦しみを味わうことになる、そんなふうに思わせる子どもたちです。
 そんなに大勢いるわけでもありません。たぶん20人か30人にひとり、いるかいないかといった割合で存在する、欲望を押さえられない、平気で嘘をつく、尊大で子どものくせに大人を恐れない、そしてけっしてみずからは働かない子たちです。
 私と同じように教員からこの世界に入った一人の口を借りると、
「“無礼者!”と怒鳴りつけたくなるような子がいくらでもいる」
といった言い方になりますが、“児童館での姿は、その子が親からも学校からも自由になったとき見せる姿”ですから、放っておくととんでもない人間に育ってしまう可能性があります。親はそのことを知らずに養育しています。
 ウグイスはしばしばカッコウに托卵されることはありますがヘビに卵を預けられることはありません。しかし人間の世界ではそれに似たことが起きるのです。映画「ローズマリーの赤ちゃん」では実際に悪魔の子を懐胎させられてしまいますし、邦画「積み木崩し」では非行に走った娘を悪魔が憑いたように描きました。それはありうべき感じ方です。
 考えてみればたかが10歳12歳の子たちです。1歳2歳はまだ夢の中と考えれば実人生は始まって10年足らず。それがなぜこれほどまでになってしまったのか。

 もちろん私も注意したり叱ったり、諭したり誉めたり、優しく抱きしめたりします。それでは全く不十分です。
 その子たちに必要なのは十分に暖かい家庭でやさしさに包まれて日々を過ごすことです。家族から支持され、期待され、愛おしまれる――それらは私には用意できない。けれど大きな問題が起らない現状では、話しても親も理解しません。
 さて、私はどうしたものか。