カイト・カフェ

毎朝、苦みのあるコーヒーを・・・

「日本の教育の勝利」〜イタリア奇行⑧

 スリに合いさえしなければ、イタリアはかなり気持ちのいい国だったはずです。PIGS(ポルトガル・イタリア・ギリシャ・スペイン)と呼ばれる経済困難の国で、なんにつけてものんびりしている、いい加減だとか聞いていたり、あるいはベネツィアがゴミの山だらけになっている写真に記憶があったりして、それなりにハードルを下げて出かけたのですが思ったよりずっといいところでした。
 もちろん、噂を裏付けるできごともたくさんあります。
 たとえば路上喫煙が当たり前で平気でタバコを投げ捨てるとか、電車の運行がいい加減で到着の15分前くらいにならないと入線ホームが決まらないとか。ですからフィレンツェからローマへの移動の際は駅の中ほどにいて、掲示板に番線が出た瞬間に猛然とダッシュしてそのままホームへ。しかし走ったところで時刻どおりに出発はしませんから変に間ができたりします。

 最終日の朝は朝食時間の前に出発しなければならないのでブレックファストボックスを頼んでおきました。ところがそれが届かない。しかたないのでフロントに行くと「さっきまでそこにあったのに誰かが持って行っちゃった」という話になります。まるで“いつものこと”といった感じです。
「20分ほど待ってくれればまた持ってくる」と言うのですが、20分どころか5分も待たないうちにクロワッサンやりんごの投げ込まれた紙袋が届きます。しかしそれが当初から予定されたブレックファストボックスとは到底思えないのです。
「だれかが持って行っちゃった」が日常なら、それに対応する策があってしかるべきだと、私は思います。しかし「そんなことにいちいち目くじらを立てるなよ」というのもひとつの論理で、それを皆で共有すればいいだけです。事実イタリアではそのようにしていますし、その方が性に合うという人だっていることでしょう。

 道端に佇む乞食も印象深いものでした。自動車に背を向けて車道の端にひざをつき、上体を歩道になげうつ感じでべったりと伏せ、伸ばした両腕で頭をつつんでその先で空き缶を持つ。それがイタリアの乞食の流儀のようです。教会の前で空き缶を振り回している老婆も見ましたがこちらの方は身なりも多少よく、もしかしたら乞食にも階級があるのかと思ったりもしました。
 日本にはホームレスはいても乞食はいません。どんなに凋落しても食は乞うものではなく、ゴミ箱を漁っても自分で稼ぐもの――それが日本の流儀です。ただしそんなホームレスの矜持が生まれたのはここ40〜50年のことで、私が幼かったときは日本にもたくさんの乞食がいました。私の生まれた田舎町にもとても有名な乞食がいて、みんなに愛されていたようです。

 日本の異常に高い道徳性が、ここ数十年の傾向だということは覚えておく必要があります。路上喫煙だとか吸殻のポイ捨てだとかはつい20〜30年前まで当たり前で、映画館も煙越しにスクリーンを見るようなありさまでした。その名のついた歌がはやったころの神田川は、悪臭ふんぷんとするどぶ川で、ビニルやらポリバケツやらが淀んだ水とともにゆっくり流れて行ったりしました。昔の日本も、そう大したものではなかったのです。
 それから数十年………。

 バチカン美術館のロビーで、大学生くらいの日本人女性の一団が自動販売機のミネラルウォーターを買おうとしていました。そのうちの一人が封を切った瞬間に水を噴出してしまい、周囲にまき散らしてしまったのです。あちらのペットボトルは薄いので、ちょっと握っただけで水があふれてしまいます。あわてて女の子はポケット・ティッシュをつまみ出し、一生懸命床を拭いてそのティッシュをバックに忍ばせたゴミ袋に詰め込みました。
「どんなもんだい!」
 と私は心の中で叫びます。
 日本の若者はこんなことを自然にできるのだぞ! 日本の学校教育はここまで日本人を育てたのだぞ!

(この稿、続く)