「嫌な気分」

 先週の土曜日に月曜日の分のブログ記事を書き(「プチ・エリートと平民の日々」①)、日曜日の朝を迎えました。朝6時のニュースで後藤健二さんの死を知り、深く思うところがあって記事を差し換えようと思ったのですが、どうにもこうにも気持ちが沈み込んで意欲がわいてこない。そんな気分が、ほとんど丸一日続きました。
 なぜそれほどに落ち込んだのか――。

 ここのところ注目し、生還が期されていた後藤さんがあっけなく殺されてしまったという切なさ、人が人を簡単に殺してしまう空しさ、アラブのために人生を賭けた人の業績が、そのアラブで何の重みも持たなかった――少なくとも命を奪った者の心にいささかの躊躇も生まなかったという空虚感、そうしたものが諸々あったのは事実です。しかしそれだけでは説明できない重苦しさが、ずっと続いていたのです。

 それから二日たって、私はようやく気づきました。私の気持ちを暗くしていたのは、あの“後藤さんが殺されたとされる映像”そのものだったのです。
 オレンジ色の服を着てひざまずく後藤さんの横で、ジハーディ・ジョンと呼ばれる黒服の男が演説する姿は、日曜日のニュース・ショウで一日中、繰り返し使われました。わずか1時間の番組で7回も8回も出され、日本訳された声明文も同じ数だけ繰り返されます。そして一文一文がさらに詳しく検討されるのですが、果たしてそこまでやる必要があったのか。
 イスラム国の、後藤さんに関わる一連の行動は結局のところプロパガンダだった――力を誇示し、世界に恐怖を植え付けて混乱を生み出すためだったと言われるようになっていますが、だとしたらマスコミはこれに全面的に加担したことになります。その映像を延々と繰り返し流すことで、効果は絶大なものとなりました。この日使われた映像とメッセージを同じ数だけCMで流すとしたら、何十億円もかかるはずです。それを無料で提供したのですから、マスコミの罪は重い。まんまとイスラム国の術中にはまったとしか言いようがありません。

 私が心配するのは子どもたちへの影響です。小学生の潜在意識にどう影響するのかは分かりませんが、10代の子どもたちなら確実に何かが動かされるはずです。
 私が丸一日沈み込んでいたのと同じ暗い感情の中で、打ちひしがれ恐怖に震えるのも間違いです。イスラム国はそこまで強大ではありませんし数年後には滅びていく存在です。
 逆に、怒りや復讐の炎をメラメラ燃やすのも正しい態度とは言えません。それもそれでイスラム国にはもってこいの状況です。日本が世論に押されて積極的に戦争に加担すれば、イスラム国に口実を与えることになりかねないからです。

 私たちは事態に冷静に対処しなくてはなりません。もちろんマスコミも同じことを言いますが、他方で、映像としては激しく私たちを突き動かそうとします。
 ほんとうにあの映像は必要だったのか。必要だったとしてもあれほど繰り返して流さなければならないものだったのか――そう考えるとそうした意味でも、本気で“マスコミから子どもを守る教育”の必要性が思われるのです。
 また、やるべきことが増えました。
(ちなみに私の知る限り、NHKは一度も、最後のあの映像を使いませんでした。それが節度というものです)