前橋市で無施錠の部屋から入った暴漢に老夫婦が襲われ、夫が殺されるという事件がありました。それを聞いた87歳の母が、にわかに席を立って、
「ちょっと、戸締り、見てくる」
私は少し呆れて、
「怖いの?」
すると、「だって殺されるんでしょ?」
父が死んだとき、ベッドに駆けあがって「すぐに私も行くから――」と言った母です。
それから3年。地震があれば怯え、近くで交通事故があったといっては震え、病院通いも欠かしません。すぐ行くと言ったのに言ったことさえ忘れているのです。
声には出して言いませんが、87歳にもなってなぜ今更死ぬのが怖いのか、私には分かりません。単純に不思議なのです。私自身が、今死ぬのも怖くない、そんなふうに感じているからかもしれません。です。
それは一つには死ぬ瞬間に関する信仰の問題なのかもしれません。私は、死ぬ瞬間はとても素晴らしいもの、もしくは無感覚なもの、そのどちらかに違いないと確信しています。例えば海や川でおぼれ死ぬにしても、息ができなくて苦しむ時間が数分あって、その次の瞬間、夢にも見たことのないすばらしい世界が広がり、歓喜のうちに死に赴く、そう信じているのです。なぜなら臨死体験者が等しく同じことを言うからです。
その瞬間、死に対して最後の抵抗をする肉体から、ドーパミンだかエンドルフィンだかいわゆる脳内麻薬が大量にあふれ出て、否が応にも幸福にならざるを得ない、きっとそうなる、そんなふうに思うのです。
母と私の違いは、あるいは死後の世界に関する考え方の違いかもしれません。けれど死後の世界など、そんなものはあるかどうか分かりません。分からないとしたら、あとは信仰の問題です。
私にとって最悪の死後の世界は、この世に浮遊して家族や友人の姿を見続けることです。人々様子を生前よりもさらに正確に見ながら(なにしろどこへでも行けますから)、しかし何の手助けもアドバイスもできない、それが最悪です。
最善は何かというと、それを「天国で幸せに暮らすこと」と言ってもいいのですが、実は私には「天国における幸せ」のイメージがさっぱり浮かばないのです。自分がどんな状態だったら「ほんとうに幸せ」なのか全く分かりません。
おいしいお酒を飲みながら、きれいな女性に囲まれて皆からチヤホヤされる――それも悪くないのですが、どんなに頑張っても3時間が限度でしょう。それ以上になると飽きるに決まっています。かくして、死後のもっともあるべき姿は「なにもないこと」となります。それで決まりです。
私は死ぬ直前、少しは苦しむかもしれませんがそのあとは圧倒的な幸福感に包まれ、そして意識が飛ぶ、その先には何もない――だとしたら何を恐れることがあるでしょう。
この世に未練はないのか――。
今日だったらありません。現在だと家族についても友人にしても、大きく心配しなければならないことも手助けできることもないみたいです。
世の移り変わりを見ていたいという人もいますが、あと20〜30年たっても世界はあまり変わっていそうにありません。アメリカ映画を見て2001年には背広で宇宙に行けると信じ、2003年にはアトム型ロボットが世界を闊歩していると思っていたのに、そんな夢は100年たっても実現しないとよく分かりました。世界にそこまでの進歩はありません。
さて、今日は金曜日。明日、明後日はお休みなのでこんなところで終わらせるのは嫌なのですが時間も紙面もなくなってしまいました。
月曜日は「それでもちょっと生きてみたくなったな」というお話をしたいと思います。
(この稿、続く)