「ハゲてはいけない」

 久しぶりに床屋さん(*)に行って調髪をしてきました。

*一時期「床屋」は差別用語で「理髪店」または「理容店」が正しいという話がありました。私の用語辞典ではそうなっていません。そこでは「理容店」は髪を切って整えるところ、「床屋さん」は四方山話をするついでに髪を整えてもらうところです。

 そこで自然に、話は「ハゲ」(*)の問題に進みます。

*これも差別用語かもしれません。正しくは「毛髪薄弱者」とでもいうのでしょうか?

 かつてハゲをバカにした報いに違いありませんが、この一年余りの間に、私の頭髪は急速に薄くなっています。それまではまったく気にせずに済んだのに、いったん始まると落日は速いのです。

「しかし不思議なものですねェ」と店主。

「人間の頭を守る大切なものなのに、どうしてなくなってしまうのでしょう?」

「それは――」と私。

「もう死んじゃってもいい、ってことじゃないですか?」

 若くて髪がフサフサの時代には決して口にできないことでも、自分が当事者だと安心して言葉に出せます。そして「死んじゃってもいい」にもそれなりの理由があるのです。つい最近読んだ本の中にこんな話があったからです。

 動物のメスで閉経後も長く生きている動物はほとんどいない、人間はその数少ない種のひとつなのだそうです。再生産の能力がなくなったメスを生かし続けるのは、資源のムダ遣いだからです。しかし人類のメスは年老いても生き続ける、そのメスの子であるオスも母に似て長生きをする、それはなぜか――。

 すぐに思いつくのは、「年老いた者が生き残ることが、人類にとって有利だったから」という仮説です。

 数万年前、人類は二足歩行を始めるととともに骨盤を狭くしていきました。それと逆比例するかのように頭蓋は大きくなったので難産は常態になり、次第に未熟なまま子を産む方向に進みます。

 馬にしても牛にしても生まれて数時間で立ち、母親のもとに行って乳を飲むというのに人類は歩行まで一年、「自分の力で飯を食う」ようになるまでに、現代で15年(義務教育の終了)、奈良時代に遡っても6年(口分田の与えられる年齢)もかかってしまうのです。その間、子どもは両親が守っていかなければならないのですが、一組のオスとメスだけでは荷が重すぎます。そこで長命な遺伝子を持つ家系ががぜん有利となり、爺婆の力を借りて子育てできる家族が人類の主流になってきたというのです。

(ここからが私の仮説)しかし一世代30年で二世代は60年、ヒトは60歳になるとだいたいマゴ世代が育ち終わり、安心できる時期に入る――だからそのあたりから「もう死んじゃってもいいってこと」になり、大切な頭を守る頭髪も役割を放棄し始める、そういうことではないのかと思うのです。

 しかし、オイ、待て、そこには個別の問題というのもあるだろう。私の娘はつい最近嫁に行ったばかりで息子はまだ大学生だ。マゴの面倒を見るのが人類としての要件なら、私の場合はまだ始まってすらいない、だからハゲていいはずはない――。

 髪を洗ってもらい、かつてないほどシャワーの水圧を頭皮にじかに感じながら、私が思ったことはそういうことです。

 職業人としての役割は終わりましたが、人類としての役割はまだ終わっていない、だからハゲてはいけないのです。