「転院の優雅な日々」〜ガン病棟より③

 肺の内視鏡検査というのはそもそも物が入らないようにできている部分(肺)に異物を挿入するわけですから、ただではすみません。さらにその時の私は普通の状態ではありません。基本的に咳をしたくてしかたがない状況の人間ですから――私は咳をしたい、異物が入ってくるのでさらに咳で押し返したい、にも関わらず逆に外からものが入ってくる、さらに咳のための深呼吸をしようにも空気の流入口は異物ために極端に狭まっていてほとんど入ってこない――つまり溺れている状態で咳をしようとノタウチまわっているようなものなのです。
 しかもその状態で意識は耳にも集中させ、医師たちの会話を細大漏らさず聞き取ろうとしているのですから大変です。医者の会話の中から少しでも正確な情報を聞き取ろうとしたのです(結局、その中からは何も分かりませんでしたが)。終わった時にはホウホウの体です。

 一週間後、正式な告知と手術の日程調整が行われました。「一年間はもたせたい」と言ったのはその時です。そのあと妻や両親に報告して双方を悲しませ、弟にも連絡をして「あとはよろしく」と頼み、私はそのまま静かに手術日を待つつもりでした。しかしそこに横やりが入るのです。

 その前年に結婚した私の弟の配偶者には、遠縁に医者がいました。都会のガン・センターの医師です。そのことは私が病気になって初めて分ったことです。弟がその人と連絡を取り、セカンドオピニオンでもいいのでとにかく一度診せに来いという話が持ち上がったのです。一通りの検査は終わっていたので、私は改めて入院するのは嫌だったのです。残された、短いかもしれない日々を、子どものそばで過ごしたかったのです。

 しかし生や死は個人的な問題ではありません。誕生や婚姻と同じように、それは関係性の中にあります。本人がどう死にたいのかも大切ですが、生者がどう残されるかも疎かにできません。残される者に「ああしておけばよかった」「こうすればよかった」という禍根を、あまりにも多く残すようでは死者は生者に不誠実です。優しくもありません。
 そこで私は田舎町を離れ、都会の病院に入院することになったのです。タクシーで駅に向かおうとするとき、まだ三歳の息子が自分も連れて行けと泣きながら追ってきたのには、やはり泣かされました。

 ところが、いざ入院生活が始まると、子どもたちと会わない日が続くことが案外、苦痛ではないのです。これには驚きました。教員であることと親であることは生きがいでしたから、それが同時に失われることはどんなに苦しいかと思っていたのですが、それほどでもない。私は自分の意外な面を見る思いでした。

 たしかにやることがたくさんありました。検査もびっくりするほど多くありましたし、持ち込んだ書籍の量も半端ではありません。そして何より、テレビを見る時間が爆発的に増えたのです。ちょうど神戸連続児童殺傷事件――いわゆる酒鬼薔薇事件の真っ最中だったのです。
 事件そのものはあとからいくらでも確認できますが、マスコミがどう過ちを犯し、社会をミスリードしていったか、それをリアルタイムで見続けたのはあとから思い出しても痛快な体験でした。両手にゴミ袋をもった、がっちりした体格の30代の男だとか数台の不審車両だとかは、あとから考えれば完全な幻想です。ほぼ同時期に起った二つの殺人・殺人未遂事件も、手口が違うから別の犯人だというのは戯言でした。

 いずれにしろ、死と向かい合うといった陰惨な感じとは無関係な生活を、私はガン・センターという特殊な病院で送っていたのです。

 

(この稿、続く)