「明日の覚悟」�@

 2011年3月11日の夕方、私は前々から予定していた用事のため学校を早く出ました。東北地方で起きた地震のことはあまり気にしていませんでした。その時点では東京の九段会館で天井が崩落して死傷者が出たとか、千葉方面のビルから火の手が上がっているといった程度の情報で、東北の様子はほとんど知らされていなかったからです。確かに4時前後の段階で大津波の映像は届いていましたが、何度も津波にあっている東北のこと、被害にあわれた方は10人乃至20人程度だろうと、そんなふうに思っていたのです。しかしそうではなかった。

 東日本大震災を考える上で頭の中に入れておかなければならないのは、震災前の予測でこの地域は最も地震の恐れのない場所のひとつだったということです。これが静岡県沖の地震のように40年も前から予告されているものだったら、避難の様子はまったく違ったものになっていたはずです。

 東北地方には地震は来ないことになっていた。だから防災計画も防災意識もかなり大まかなものだった。それがおそらく現実で、しかしいたしかたないことだったように思います。

 大まかと言えば例えば、私たちに身近なところで言えば避難所として指定されていた学校――その避難所運営の主体は、多くの場合自治体職員になっていました。しかしそれでうまく行くはずがありません。なぜなら避難所を開設しなければならないような大災害の場合、自治体職員の大部分は状況把握や避難指示、被災者支援や交通・通信確保のために忙殺され、きめの細かい避難所運営などとてもできるはずがないからです。

 東日本大震災場合は、さらに悲惨な状況がありました。代表的なのが「命のアナウンス」で有名な南三陸町です。南三陸町では地震発生とともに町のトップたちが防災庁舎に集合し、そこで被災して行政の中核が一気に失われてしまうのです。被災後の支援の主体がまったくいなくなる――。

 同じ状況は多かれ少なかれ他の自治体でもありました。災害対策の最先端にいるはずの消防署・消防団はそれゆえに最前線で次々となぎ倒されます。警察も同様、行政の末端である町会も、おもだった人々は隣人を救うためにモタモタしているうちに波に飲まれてしまい、被災後の対応ができなくなっています。東日本があれほどの災害になった理由の一つがそこにありました。

 しかしそんな中にあって、同じ公務員でありながら組織としてほとんど傷つかなかったところもあります。私たち学校です。学校職員のほとんどは、子どもの避難を最優先することで自らも避難し、一緒に危険から逃れていたのです。

 避難所に指定されていた学校には、続々と避難民が入ってきました。しかし自治体の対応は遅れます。壊滅した自治体はもちろん、ほとんど無傷だったところでも各避難所に配当された職員はせいぜいが数名。それも全員が辿りついたわけではありません。好むと好まざるとによらず学校職員が避難所運営を始めなければなりませんでした。しかしほんとうは最初からそうすべきでした。なぜなら学校はもともと彼らのフィールドだからです。どこに何があるか、何をどうしたらうまく行くのか熟知しています。さらに、人を分け、掌握し、動かす、そうしたことは、この人たちが最も得意とする仕事です。教員はずっとそうした仕事をしてきたのです。

 かくして多くの避難所で学校職員が運営の主体となります。避難が一週間・二週間と長引けば授業再開のことも考えなくてはいけなくなります。その場合も主体が学校であればむしろやりやすくなります。いや、そもそも避難民受け入れの際から、授業再開を見越して受け入れ人数や受け入れ場所の確保を考えなくてはなりません。その意味でも学校が主体であることは決定的に必要なことでした。

                                       (この稿、続く)