「津波のあとの第一講」

 3月11日です。あれから3年。私にとってはあっという間の月日でしたが、東北の方々の中には、苦難の長い長い月日と感じる方もおられるかもしれません。時は必ずしも公平に流れるものではありません。

 今日は半旗を掲げ、地震の発生した午後2時46分に黙祷をささげることになっています。子どもたちにはその意味を考えさせ、深い哀悼の意を表したいものです。

 一昨年(2012)、「津波の後の第一講」(今福龍太、鵜飼哲 編集 岩波書店)という本が出版されました。東日本大震災の翌月、新年度の最初の授業で、大学の教師たちが学生に何を語ったかという最初の講義のアンソロジーです。あの大災害を自分の中にどう位置づけるのか、巨大な災厄と自らがよって立つ学問をどう結ぶのか、それは研究者にとって学問的誠実さに関わる重要なテーマでした。教師たちはそれをどう乗り越えたか、ということです。しかしそれは私たち義務教育の教員たちにとっても、捨て置けない問題です。あれほどの災厄のあとで、自らの生き方や教育観にまるで変化がないとしたら、それは恐ろしいほどの鈍感か不誠実によって支えられているとしか考えようがないからです。私たちはおそらく変わった、意識していなくても何かが変わった、その変わった内容を意識の水面にまで引き上げ、しっかりと見据えていないと、私たちは何事もなかったかのように過ごさざるを得なくなります。自分の中に起こったことを意識し、整理し、外部に伝えられるような形にしておかないと、いつか忘れてしまうかもしれないからです。

 さしあたり私は、教育の目標を個人の自己実現のから社会還元へ大きく移動させました。教育は個人の能力を最大限に引き出し、その子が生き生きと生きていくための基礎的な力をつけてあげることだ、という想いから、誰かの役に立つこと、その子が学んで身につけた技能や情緒が、他の誰かを助けてやれるようにすることと、そんなふうに想いを変えたのです。自分のためばかりでなく、誰かのために生きる心と実力をつけさせたい、それが今の私の願いです。

 もうひとつは、私たちが守るべきものを見つけ出したということです。うすうすは感じていたのですが、どうやら私たちはとんでもなく素晴らしいものを持っていた、持っていたのにもかかわらず、こうした危機的な状況になるまでそれは目に見えるかたちであらわれてこなかった、そういうものです。具体的にはそれは「お互いさま」「おかげさま」「もったいない」「すみません」「申し訳ない」「しかたない」「おもてなし」といった言葉で表現される概念と、その周辺の見方・感じ方・存在のしかた。私たちは思っていた以上に道徳的な民族で、学校はそれを支えることに成功してきました。もちろん今後もそれを守り継承していかなければなりません。

 震災以前、社会評論家の仕事のひとつは日本の悪口を言うことでした(「だから日本はダメなんですよ」「そんなことをしているのは日本人だけです」「それが日本人の悪い癖なんですね」)。震災以後、そうした風潮がほとんどなくなったのはよいことだと思います。

 そして3番目はコミュニティーの大切さということです。

 例えば今は帰還困難区域に指定されている浪江町ですが、この「浪江町」にはさまざまな概念があります。それは行政区つまり土地としての浪江町であり、役場の機能としての浪江町であり、そして人々のつながり、コミュニティーとしての浪江町です。現実問題として町民はそこにいるわけではありませんから土地としての浪江町からは切り離されています。しかしコミュニティーとしての浪江町は終始一貫して存在しました。

 どんな場合も、自分がそこに属していると感じている間は“そこ”は存在します。土地がなくなっても行政が機能しなくなっても“そこ”、つまりコミュニティーは存在します。そして最後まであてにできるのはコミュニティーだけです。

 子どもに地域の一員として生きろというのはなかなか難しいことで、相当大人にならなければ理解できないことかもしれませんが、今のうちにその基礎はつけておきたいと思います。教育というものは一方で、「ああ、あのとき教えてもらったのはこういうことだったのか」とあとで理解できればいいものだからです。