カイト・カフェ

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「あのころの話」~学校の文士劇

 今日1月17日は阪神淡路大震災(1995)から19年目の祈念日です。不幸中の幸いは発生が午前5時46分52秒と人々の活動が始まる直前だったこと(始発電車が動き始めてからだったら、あるいはもっと多くの家庭が朝食の準備を始めていたら、被害はさらに大きくなっていたはずです)、幸いでなかったのは政権が自民・さきがけ・社会党の連立で、首班が社会党村山富市であったこと(私は自民党支持者ではありませんが、官僚の動かし方を良く知っている自民党政権の方が非常時には強いのではないかと思っています)。東日本大震災の時にも政権は自民党にありませんでした。その点は運が悪かったとしか言いようがありません。

 不謹慎なようですが阪神淡路大震災が起こるまで、1月17日は私にとって寛一がお宮を蹴飛ばした日でした。若い人はほとんど知らないと思いますが、これは尾崎紅葉の「金色夜叉」に出てくる名場面です。
「高等中学校の学生、間(はざま)貫一の許婚である鴫沢(しぎさわ)宮は、結婚を間近にして大金持ちの富山唯継のところへ嫁いでしまう。それに激怒した貫一は熱海で宮を問い詰めるが宮は本心を明かさない。貫一は宮を蹴り飛ばし、復讐のために高利貸しになる」
というお話です。お宮の恋人が「間寛一(裸一貫)」で結婚相手が「富山唯継(富の山をただで継ぐ)」という時点ですでに気持ちが萎えてしまうのですが、雅俗折衷体と呼ばれる優雅な文体で、名文の誉れの高い明治の傑作です(読んだことがないので分かりませんが)。
金色夜叉」という題名は寛一がやがて「金の亡者(=金色夜叉)」になるという設定からつけられたものです。ただし寛一が夜叉になる前に、紅葉は死んでこの作品は未完のままです。

 寛一がお宮を蹴飛ばすところは、素人芝居でやたらやりたがる人気の一場面。ちょうど欧米の人が「生きるべきか死すべきか、それが問題だ」と『ハムレット』をやりたがるように、昔の日本人の多くが、「いいか、宮さん、一月の一七日だ。来年の今月今夜になったならば、僕の涙で必ず月は曇らして見せるから、月が……月が……月が……曇ったらば、宮さん、貫一はどこかでお前を恨んで、今夜のように泣いていると思ってくれ」とやったものなのです。

 私はこの芝居を、30年近く前の忘年会の席で見たことがあります。ひとつ上の学年主任にこうしたことの好きな人がいて、必ず出し物として用意してくるのです。今年は「金色夜叉」翌年は「女系図」と題材に困ることはありません。そのため学年は12月になると連日会合です。
「何かあるのですか」と聞かれると「いやあ、オタクみたいに平和な学年とは違ってねえ、ウチなんか毎日生徒指導だぁ」などと言いながら密かに芝居の練習をしているのです。

 もしかしたらそれは文士劇の流れだったのかもしれません。一流の小説家たちが年に一度、思い切り馬鹿になって遊んでみ見せる、それと同じ意味があって始まったことなのかもしれないのです。だとしたら教員の中にもまだエリート意識が、そしてエリートとしての責任感も残っていたのかもしれません。

 今と比べて暇だったわけでもありません。当時もなかなか忙しかったのです。しかし遊び心がありました。多少迷惑がりながらも学年主任のわがままに付き合う若い先生たちがいました。そんなバカなことをしながら、着々と同僚性を築いたのです。