「見えない人たち、見ない人たち」

 ADHDを心配される子を、専門家に観察してもらったことがあります。総合的な学習の時間の制作活動の様子を見てもらったのです。授業が終わってから感想を求めるとクスクス笑いながら、「ホント、まるっきり典型」とおっしゃいます。私は気づかなかったのですが途中で糊が必要な場面があったのです。すると彼は糊の置いてある棚にまっすぐ向かって歩き、周囲にいた人たちを次々と肩で突き飛ばしていったというのです。

「衝動的に動くので、周囲がまったく目に入っていないのです」

 なるほどね。それがADHDの指標なら、彼はそんなことしょっちゅうやっていました。そしてけんかばかりしていたのです。

 ある日それとまったく同じ光景に出会いました。スーパー・マーケットのレジ付近のことです。一人の中年女性が胸に商品を抱え、数人を肩で跳ね飛ばしながらまっすぐにレジに向かって行ったのです。その最初の犠牲者が私でした。

一昔前なら「何と不躾なオバちゃんだろう」と思ったところですが、勉強したあとだけにそのときは違いました。

「この女性の目には私も、私の次に吹き飛ばされてびっくりして見つめ返している若者の姿も、まったく入っていないのかもしれない」

そう思ったのです。そんなふうに考えると、これまでも幾度となく同じ目にあっていたことが思い出されます。

 遡ること二十数年前、そのころ勤めていた中学校の文化祭、開祭式のときのことです。

 校内で一番最初に生徒を入場させて職員席に座ろうとした私は、挙動不審と言うより口元不審の女生徒を発見します。

(あのバカ、ガム、噛んでいやがる)

 そこで私は並んだパイプ椅子を掻き分けながら大急ぎで走り、生徒の横に立つと口元に手を出して「出せ」と脅しました。急いだのは証拠隠滅を恐れたからです。飲み込まれたらそれきりです。女の子の口からポトリとガムの塊が落ちてきます。現行犯でつかまえれば後は簡単なものです。そのときでした。

「バカ野郎! オマエ、何をしてるんだ!」

 見ると遠くで、生徒会顧問がものすごい形相で睨んでいます。私は呆気に取られました。ガムを吐き出した生徒も不安そうに見ています。

 私より5歳以上若い二十歳代の青年教師です。いかに頭に来たとはいえ、大勢の前で先輩教師を罵倒したのです。あたりがざわつくのも無理はありません。

 そのあとどうなったか良く覚えていません。とにかく私はびっくりしてしまい、彼に背を向けてパイプ椅子を元に戻しながら自分の席に帰りました。生徒の指導はあとでやればいいことです。私も生徒会顧問に頭に来ることはありませんが、彼が私に謝るということもなかったと思います。

 あれ以来ずっと心の隅に引っかかっていたのですが今なら分かります。彼もまた見えていなかった人なのです。

 あの先生、非違行為という意味では今も危険な人なのかもしれません。