カイト・カフェ

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「永遠の0(ゼロ)」⑤

 四日もしゃべってきてやっと本題です
「永遠の0」を読み終えて最後に思ったのは、やはり政治は何も変わらない、ということです。とにかく合理的な判断をしない。

 ガダルカナルの奪還戦では敵の戦力を完全に読み違えます。当初2千人と見積もった米軍は、実は1万3千もいたのです。おまけに「アメリカ兵は臆病だから、ギリギリまで近づいて一発弾を撃てば怯えて凍りつく。その間に駆けよって銃剣で突き刺す」これが一木支隊の作戦です。
 判断としては半分あっていました。アメリカ兵は臆病でした(そこまでは正しい)。だから一発銃声がすると怯えて無暗やたらと機関銃を撃ちまくったのです(そこが違った)。おかげでわずか9百人の一木支隊は一夜にして全滅してしまいます。

 翻って2006年、第一次安倍内閣教育再生会議は日本の教育を復活させるために様々な議論を重ね、提案をします。しかし彼らが議論も調査もしなかったことが一つだけあります。それは「日本の教育は根本的な改変をしなければならないほど疲弊し病んでいるのか」という問題です。最初に「教育再生会議」と名づけた瞬間に、日本の教育はダメだ(すでに死んでいる)ということが前提となってしまい、誰も検証しなかったのです。
(私はその間も、日本の教育は非常にうまく行っていたと考えています。私たちはこれほど清潔で安全な、そして世界から評価される国をつくったのですから)。

「永遠の0」の中にはゼロ戦の性能ついて話すこんな場面があります。

 たしかにすごい航続距離だ。千八百浬も飛べる単座戦闘機なんて考えられない。(中略)八時間も飛べる飛行機は素晴らしいものだと思う。しかしそこにはそれを操る搭乗員のことが考えられていない。八時間もの間、搭乗員は一時も油断は出来ない。我々は民間航空の操縦士ではない。いつ敵が襲いかかってくるかわからない戦場で八時間の飛行は体力の限界を超えている。自分たちは機械じゃない。生身の人間だ。八時間も飛べる飛行機を作った人はこの飛行機に人間が乗ることを想定していたんだろうか

 私はこの部分を読んだ時、唐突に「総合的な学習の時間」のことを思いました。
「総合的な学習」は理念的にはおそらく最良の教育です。しかし当時の文部省の技官や専門家たちは、この理想主義的教育を普通の教員の日常的な努力で果たせると、本気で信じたのでしょうか。本気で考えたとしたら恐るべき楽観主義です。

 いわゆる「ゆとり教育」全体もそうです。授業内容、時数を大幅に減らすことについて記者に突っ込まれた「ミスター文部省(寺脇研)」はこう言いました。

「内容を減らしたのだから全員が完全にできるようにします。先生がそうします」
 これも本気の発言だったのか。一つの単元にしろ教科全体にしろ「全員ができるようになる」という状況を想定することは、現場の教師には不可能です。それができたら全員が地域のトップ校に進学してしまいます。

「子どもに世界一の学力を」とか「世界に通用する英語力を」とかは皆そうで、それが達成可能な目標かどうかも検証もしないで旗を振るのは、「撃ちてし止(や)まん」とか「欲しがりません勝つまでは」とか言って勝ちの見えない戦争を延々と続けさた六十数年前と、何も変わっていないということなのです。