カイト・カフェ

毎朝、苦みのあるコーヒーを・・・

「永遠の0(ゼロ)」④

 日米戦争を分析するとき、「物量主義のアメリカ」対「精神主義の日本」という対置のしかたがあります。工業力に圧倒的な差がありますから、日本は不足分を精神主義で補わなければならなかったとも言えます。

 あるいは「ヒューマニズムアメリカ」対「人間不在の日本」という対置もあります。「永遠の0」の本当の主人公ともいえる「ゼロ戦」は、防御力が極端に弱く、銃弾を撃ち込まれると操縦席も貫通してしまいます。つまりパイロットは簡単に撃たれてしまうのです。それに対してアメリカの戦闘機は操縦席を厚い鉄板で囲まれ、パイロットが容易に死なないようにできています。初期のグラマンはそのために自重が大きすぎ、航続距離も出なければ戦闘能力にも劣ります。アメリカの戦闘機がゼロ戦の能力を超えるのは、戦争後期、オバケみたいに強力なエンジンを開発して自重に負けない戦闘機を作り上げたからです。そんな事情から「ヒューマニズムアメリカ」対「人間不在の日本」は当然のごとく言われますが、果たしてそれだけだったのか。

 私は基本的にアメリカの真似をしたくない人間ですが、それでも少しは学んだ方がいいと思うのはかの国の合理性です。何かあると取りあえず科学的に分析できないかと考える一種のプラグマティズムです。

 アメリカ軍はなぜパイロットを大切にしたのか。それは人間の尊さを知っていたからか、アメリカの若者がたくさん死ぬとすぐに厭戦気分が広がって反戦運動が起きてしまうからか――もちろんそれもあるでしょうが、私はアメリカ軍に「優秀なパイロットの補充は簡単にはできない」という思想がはっきりしていたからではないのかと思うのです。

 熟練操縦士の養成には3〜4年もかかります。一回の出撃で3機〜4機と撃墜してくれる名手を失って代わりに1年生パイロットを出撃させれば、1機も撃ち落さないで自身が海の藻屑と消えてしまう可能性は大です。ですからアメリカ軍はパイロットの回収に非常に熱心でした。公海上で撃ち落されたパイロットは海に浮かんでいれば仲間の潜水艦や軍船に拾ってもらうことができました。だからパラシュートを大切にし、撃たれたらすぐに脱出を計りました。

 ところが日本の場合は落とされたら終わりなのです。大切な戦闘機を犠牲にした罪によってそのパイロットは死ななければなりません。少なくとも洋上に落下したら、だれも助けに来てくれないのです。
「オマエの代わりなんか一銭五厘(の召集令状)でいくらでも調達できる。しかし陛下から頂いた武器はそうでない!」
 戦争映画でよく聞かされたセリフですが、この考え方は間違っています。一銭五厘でやって来るのは「ど素人」です。よく訓練された優秀な兵士の代わりは「一銭五厘でいくらでも調達」できるわけがないのです。

 資源がなく工業力でも劣る当時の日本が、戦争を遂行する上で唯一アメリカに勝っていたのは練度の高い優秀な兵士だけでした。だとしたら戦争資源として“人間”こそ大事すべきだったはずです。しかしそれをしない。その非合理が、結局、日本を敗戦に導きます。

 アメリカが人間を大切にするヒューマニズムの国だなどという話は信じません。平時においてもそうですし、戦争となればなおさらです。軍の上層部などどこの国でも非情です。非情にならなければ戦争の遂行などできません。しかしその“非情”のあり方が異なります。

 一流パイロットの乗る戦闘機が撃ち落された瞬間、日本の参謀は機体が失われることを恐れパイロットを見切ります。アメリカ軍の参謀はコックピットに乗る優秀な殺人マシン(パイロット)が失われると感じて慌てうろたえる、そんな気がします。

 そして上層部の非情のあり方が異なれば、兵士の扱われ方は違ってくるのです。

(この稿、次回最終)