カイト・カフェ

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「いじる」~学校のイジメと何が違うのか

 2008年の12月に亡くなった飯島愛というタレントさんが好きでした――と書くと何かとてもいやらしい話に聞こえるかもしれませんが、これには特別の理由があります。

 20年ほど前のバラエティ番組の一場面です。

 画面の中央に斜めに立てかけられたお棺の中に、白装束の高木ブーが横たわっています。その周りでいかりや長介の“お母さん”と加藤茶志村けんの“子ども”が泣き叫んでいます。今は亡き父親の思い出を語っては泣き、そのうち「お父さんはバナナが好きだったよね」といった話から次々とさまざまな品物を棺に納め始めます。
 最初はバナナだメロンだといったものを入れていたのが、そのうちエスカレートしていき、「そう言えばモズクが好きだったわねェ」と言いながら頭からモズクを流し、「カレーも好きだった」と言っては熱いカレーを顔に塗り付けるといったふうです。
 生きたタコを白装束の襟から胸に入れ、気味悪く歩き回るエビも顔の横に何匹も置いたりします。その間、テレビの中の観客席は子どもの笑い声で大騒ぎです。そしてついに耐え切れなくなった高木ブーが「もう! いい加減にしろ!」(チャンチャン♪)といなります。

 私は非常に腹を立て、悲しく、本当に心から切ない思いでそれを観ていました。というのはそのころ、有名な「大河内清輝君いじめ自殺事件」起り、対応のまずさや不手際、隠ぺい工作などによって学校がめちゃくちゃに叩かれていたからです。教員が教員だからという理由だけで、背を丸め、小さくなっていなければならない時代でした。

 テレビのニュースショウでは連日いじめの特集が組まれ、いかに教員が無能で卑劣かといった内容が繰り返される一方で、同じテレビの別の時間にドリフターズの下品なコントが強烈なメッセージを発信しているのです。

 「(死体役の高木ブーのように)太ったヤツ、抵抗しないヤツには何をしてもいい」

  これではまるで消防士が放火犯から消火の不手際を責められているようなものです。

 先日もお話ししましたが、私が最近特に気になっているのが「いじられキャラ」です。もともとは芸能界の用語でしょうが、番組の中でからかわれたり遊ばれたりすることで存在理由を得ているような人々です。出川哲朗狩野英孝カンニング竹山といった人たちがそれにあたります。彼らは「いじられる」ことで芸能界に長く存在し、莫大な出演料を得ています。だからこそ出川哲朗は「もっといじってくれヨー」と言います。

 しかしそれが学校に入り込むと事情はまったく変わってきます。教室内の「いじられキャラ」は一銭にもなりません。ただし教室の「いじられキャラ」も学校内でのその子の存在理由ですから、ある時期までその子自身が積極的に引き受けてしまう、降りたがらない、という性質があります。ほんとうに耐えきれなくなってはじめて悲鳴を上げることになります。

 一方で「いじる」という“いじめ”を助長し、他方、別番組では“いじめ”を解決できない学校を糾弾する――それがテレビ局のやり口です。いつか質さなくてはなりません。

 あ、飯島愛を忘れていました。
 最初にお話ししたドリフターズの番組で、死んだ(役の)高木ブーに次々と食べ物や生物が投げ込まれている最中、その足元で泣く演技をしながら、さりげなくエビやタコを丁寧に除けている女優さんがいました。それが飯島愛さんです。まだ20代の前半のころでした。 

 番組や出演者にイライラしているときでしたから、いっぺんでこの子が好きになりました。