「小学校英語の教科化という愚行」②

 中高6年間も勉強しながら日常会話もできない日本の英語教育は間違っているという言い方があります。しかしこれは二重に間違っています。

 まず、英語は日常会話こそ難しい、ということが分かっていません。
 私はかつて○○空港の管制官と話したことがあります。
「英語たいへんでしょう」
というと一言、
「難しくはありません。話すことは決まっていますから。それだけを言えるようになればいいのです」
 なるほどと思いました。

 元「赤い鳥」のメンバーでのちにアメリカのバークリー音楽大学に留学した渡辺俊幸洗足学園音楽大学教授)も、音楽大学の講義にはついていけても日常会話はついにできなかったと語っています。イチローの活躍からips細胞まで広がる日常の会話に熟達するのは、それぞれの業界で話ができることよりもはるかに難しいのです。

 第二に「中高6年間も勉強しながら〜できない」ことが問題なら、算数・数学の方がはるかに深刻だという視点がありません。私など小中高と12年間も勉強しながら、今や微分積分もできないのです。それどころか中2・中3レベルの数学だって怪しい。 理科となればさらにダメで、小学生レベルでも“落ち”はありそうです。
 ただし文系科目は強く、国語は十分にたちうちできそうです。漢字検定2級も持っていますから60〜70点は堅いでしょう。もちろん古文漢文で減点されることも含めてです。社会科は中3レベルまでほぼ完ぺきです。

 しかしこれをもって日本の学校教育は理数がダメで国社がすごいということにはなりません。私が今も国語に自信があるのは学校教育のおかげではなく、今日までずっと使い続けてきたからです。社会科の教員ですから社会科はいつも身近でした。しかし微分積分、摩擦係数・化学式といったものは、大学入試が終わるとまったく使わなくなってしまいました。必要なかったからです。英語もまた似たような経過をたどっています。

 外国語に堪能な国というのは実は3種類しかありません。

 まず最初は、成熟した工業国でしかも国内市場の極端に小さな国。フィンランドを始めとするヨーロッパの多くの小国が入ります。
 国内市場が狭いので商売はどうしても外国相手となります。必然的に外国語の習得が必要です。国内市場が狭いということは翻訳本や映画の吹き替えが商業ベースに乗りにくいということにもなります。したがって読みたい本を読むために、あるいは字幕を読む煩わしさに苦しむことなく映画を楽しむために、外国語を学ぼうという人は自然に増えます。実際のところ、大学で使うテキストのほとんどが外国語となれば、高等教育を受けたい人は勉強するしかありません。

 外国語に堪能な第二の例は多民族国家です。
 極端な例はネパールで、この国は谷ごとに言語がありますから普通の人でも七種類ほどの言葉を平気で使い分けます。もちろん同じ意味の言葉を7種類ずつ覚えるわけですから言語的深まりは期待できません。おそらくネパール文学というのは非常に困難でしょう。同じことは五つの公用語(ドイツ語・フランス語、イタリア語・ロマンシュ語ラテン語)を持つスイスにも言えます。

 三番目は、かつての植民地のうち、単一言語を持たない国です。インドやフィリピンがこれにあたります。
 インドにはヒンディー語、フィリピンにはタガログ語がありますが、ともに多数派というだけで国民全員が使える言葉ではありません。韓国・北朝鮮のような統一言語を持つ国は、外国語を強制されても植民地支配が終わると同時に元の姿に戻ってしまいます。

 日本は、以上三種類のどれにも当てはまりません。

 どれほど学校教育に力を注ぎ日本人の英語力を高めたとしても、卒業後の社会に英語の必要性がなければ、その力はあっという間に失われてしまいます。ですからどうしても高い英語力を持たせたいなら、日本を英語ができなければ生きにくい社会にするしかありません。

 映画やDVDの吹き替え版などもってのほかです。テレビの洋画劇場も字幕スーパーで十分です。「ハリー・ポッター」シリーズのようなベストセラーも、英語版しかないとなればファンは必死で復習し続けます。楽天のように有名企業のすべてで英語を社内公用語としてしまうとか、官公庁の手続きを英語に統一するとか、そうすればこの国は「英語名人」ばかりが住まう国になります。

 しかしその時日本人は、果たして幸せになっているでしょうか。