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「『学校を災害が襲うとき―教師たちの3.11』から学ぶこと」~学校を災害が襲うとき①

「学校を災害が襲うとき―教師たちの3・11」(田端 健人 著、文芸春秋社 2012/10/25)を読みました。

 2011年3月11日とそれに続く日々を、宮城県内の教員たちがどう生き、何を感じたかというルポルタージュです。小中高の10人の匿名の教師と2名の実名教師(講演会等での発表者であるため2名のみ実名)のインタビューを中心に構成されています。

 ここで描かれているのは、学校の教師なら普通はこうするだろう、当然こうなるだろうといったことが粛々と行われ、それがより多くの幸運を呼び込んで災厄を最小限に食い止め、子どもや地域を支えて行く姿です。

 例えば、
『避難行動を含め、今回の緊急時には、日頃培われた教師たちの専門的な力量が発揮された。その一つは、阿畔の呼吸のチームワークである。校長や教頭が教師たちに事細かに指示しなくても、教師たちは自分の判断と行動で、その時と場に応じて、チームワークを発揮できたようである。奥井教頭の語りである。
 先生がたは、機械的にっていうか、「先読みして」動いていく。例えば、移動するにしても、子どもたちはただ移動してるんですけども、意外と、先生がた、役割分担やってるんですよ。先について、誘導するにしても、子どもにつく先生、それから、先行って待ってる先生、それからもっと先行ってる先生。そういうのっていうのは、「自然とできる」というか、常々、学校行事なんかにあるんですよ。いろいろな行事の中で「阿吽の呼吸で」できるようになってるんです。それは、日々のやっぱり「子どもをいかに動かすかすか」っていう……。
(中略)
 子どもたちを体育館にいれるという行動一つとっても、体育館の安全を確認する教師、体育館の中で準備を整える教師、どの入口からいれるかを判断しそこを開ける教師、先頭を誘導する教師、最後尾で残された子どもがいないかを確認する教師など、様々な役割分担によって成り立っている。さらに「先読み」「先回り」して、子どもたち全員が体育館に入ったあとの準備を整えていた教師もいたかもしれない。こうした役割分担が、いちいち指示されなくても、教師たちには自然とできる。これは、「常々」「いろいろな行事」のなかで鍛えられた教師の専門的力量である』

 本校の避難訓練マニュアルも、校庭に避難するところまでは書いてありますがそれ以上はありません。しかし例えば冬季の地震や火災となれば、当然体育館への二次避難を考えなければなりません。そしてそうなればきっと、宮城の学校と同じことが本校にもおきます。なぜならそれが私たちの習い性となっているからです。
 学校のようなマトリクス社会では、長い時間をかけて教職員全員の共通認識を作り上げます。ですから事態が動くとき、その全容をすべての職員が理解しています。そうした全体理解にしたがって、私たちはそれぞれの役割を自然と探すに決まっているのです。

 極限状況での教職員の落ち着いた行動は、子どもの安全確保に決定的な役割を果たすはずです。恐ろしかったり不安だったり、あるいはパニック直前の状況にいたりする子どもの周囲に、安定した大人の膜を張るからです。その膜が子どもたちを守ります。その枠の中にいれば安全でいられる、少なくともそう感じられるからです。それだけでも安全の半ばは保障されたようなものです。              

(この稿、続く)