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「修学旅行はいつから始まったのか」~修学旅行について①

 現在のような小中学校の修学旅行がいつから始まったのか、調べたことがあるのですがよく分からないところです。
 旧制中学については明治18年に森有礼文部大臣が「体操(体育)の一部を文部省の管轄から離して軍隊の中で行うべき」という通達を出し、そこから武装行軍旅行みたいなものが始まったようです。額面通り本格的な軍事訓練を始めた学校も多いのですが、一応鉄砲は担いでいるものの、物見遊山のような旅行をしている学校も少なくありませんでした。

 明治20年には修学旅行という名前が法制化します。ただし「修学旅行は定期の仕事中に於いて一カ年60日以内とし・・・」とありますから、そもそもの概念が違っているみたいです。また、驚いたことに明治24年には早くも高等小学校(現在の中学校くらい)で、軍事色の強い修学旅行が行われたことが記録に残っています。

「百聞は一見に如かずとの理論を根拠として干茲修学旅行を試む……新事物に接し新現象に会ふの優れるを信じ、之に換ふるに此旅行を以てせり。先づ2日間に諏訪地方を一周せんことを予定す……修学上の利益は蓋し尠からざるべし。生徒の過半即ち3年2年1年合せて82人を3隊に分ち、各隊1人の行進長を置き其隊の行進を司らしめた」(長野県上伊那高等小学校伊那富分校の記録)

 1日の徒歩行程は約5里(20km)。製茶業の様子を見学し、諏訪の温泉や天然ガスの噴出を見て帰校したみたいです。中学生を二日で40kmも歩かせるのですから大変な仕事です。もっとも教師の方もそれだけ歩くのですから、教師も生徒も偉かった(少なくとも体力的には)ことは確かでしょう。

 ところが明治35年にはこんな記録が見られるようになります。

「4月3日(晴)午前8時頃乙訓先生の寄宿する牛浜の清水慎一氏宅に集まった。一行の服装は先生は洋服、生徒は皆羽織袴に脚絆の草履ばき、拝島の渡船を渡り八沢峠を越え……神奈川県の相原に出て…‥原町田を過ぎ……鶴間という一寸した宿場についた。午後四時頃だったが、朝からの行程10里程で大変疲れ片田舎の小さい旅人宿に宿す。神奈川県を縦断し、江の島・鎌倉・横須賀等を見物、帰路は鉄道利用の4泊5日の修学旅行である」(東京都福生市第一小学校)

 今よりはしんどそうですが軍事色はすっかり薄れ、おそらく趣旨として今日とあまり変わりない修学旅行だったようです。以後、太平洋戦争が近づいて再び軍事色が強まるまで、こうした修学旅行が全国に広まって行きます。

 本校でも大正時代、H市への修学旅行が行われた記録が残っています。まだ直通の交通手段がなく、そのため一旦K村に下りて、そこから汽車でH市に向かいました。
 宿舎は当時の校長先生のお宅だったようですが、今よりずっと生徒の多かった時代、どんなふうに泊ったのかは分かりません。今では車で一時間足らずの距離、それでもとても幸せだったようです。

(この稿続く)