カイト・カフェ

毎朝、苦みのあるコーヒーを・・・

「運動会のこと」~清掃や動物飼育とともに、その教育効果について

 わずかな期間だというのによくあれほどの運動会を仕上げたものだとホトホト感心しました。そこで、
 教師というのはすごいものだ。あれだけの行事を仕上げながら決して自分を出すことをしない。子どもを鍛え、育て、作品を仕上げてもそれだけでは満足せず、「自分がした」という事実を丁寧に消して結局子どもだけの手柄にしてしまう・・・という話をしようとしました。そしてそれから少し気になって昨年の運動会明けのデイ・バイ・デイ(現「アフター・フェア」)を調べたら、まったく同じことを書いていました。

 そこで今度は、
 運動会というのは日本を除くと、韓国・北朝鮮、台湾と中国の東北部、つまりかつて日本の支配下にあった場所でしか行われていない。植民地時代の残滓というより、良いものは政治や主義主張を越えて残るものだ・・・という話をしようと思ったら、こっちは一昨年の同じ日に記録があります。毎日何かを書くという生活をもう7年以上続けていますのでそろそろ“成長”というものがなくなっています。同じところをグルグル回っています。

 少し話が変わるみたいですが、私が卒業した小学校では当時、掃除の時間が一日3回もありました。全校朝掃除と給食後の掃除、そして引き続き行われる外掃除の時間です。外掃除と言っても実際にやるのは園芸で、それぞれのクラスに割り当てられた(けっこう大きな)花壇の世話をするのです。

 農業には大きな教育効果がある、その力を利用しない手はないと誰かが考えたのでしょう。学校としては大きな試みでした。しかし如何せん農業は夏だけのもので、やがていつの間にかそれは縮小されて行きました。

 またその学校では動物飼育も盛んで、学校にはウサギやキジ、ニワトリやヤギまでいました。中でも記憶に残っているのは隣のクラスが飼育していたブタで、ある日みんなでお別れ会をしていたと思ったら、何かの業者に引き取られて行きました(そのあとどうなったか。みんな薄々知っていましたが誰も口にしませんでした)。

 動物飼育も今は昔ほど盛んでなくなっています。その教育効果は保障されていますがとにかく時間と手間がかかるのです。コストがかかり過ぎるといってもいいでしょう。

 近代教育だけでもすでに150年になろうとしています。その間、園芸も飼育も、書道も武道もと様々なものが試され、あるものは残り別のものは消えました。運動会はその“残ったもの”のひとつです。

 忙しい忙しいと言いながら、それにもかかわらず教員たちが運動会の縮小を言いださない(逆に大掛かりにしたりする)のにはそれなりの理由があります。
 運動会のもつ教育効果を強く信じているのです。