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「大津いじめ自殺事件における教師の罪深さについて」~錯誤はどこにあったのか①

 「デイ・バイ・デイ」も本校に来てからの分が今日で500号記念なのだし、陰惨な話は一息つかないと胸が苦しいのでいったん別の話にしようと思ったのですが、三連休、テレビを見ても新聞を開いてもネットを広げてもどこもかしこも大津のいじめ事件、しかも教育委員会と学校がボコボコに叩かれていて、だいぶ凹みました。

 18年前の「大河内君いじめ自殺事件」の時もそうでしたが、教員が教員である事自体が悪であるような、人間のクズであるような話がメディアにあふれています。教員はどこに行っても肩身の狭い思いをせざるを得ません。
 これこそわが身に置き換えて考えるべき問題です。

 今、学校で何かしらの事件・事故が起きれば、「人間のクズがまたやった」というレベルから見られかねないからです。そうなるとすんなり行われるべき問題解決も、まったく進まなくなります。

 ではなぜ大津の事件では、学校や教育委員会が悪辣なクズのように見られているのか。少しまとめてみましょう。まず、

  1. ひとりの生徒の死に対して調査があまりにも粗雑であり、命の重さをまったく感じていないように見えること。
  2. その調査のいい加減さの原動力は、事態を小さく小さく収めようとする学校・教育員会協同の意志であり、その意志の原因は(おそらく)保身であること。
  3. 実際に暴力の現場を見た教師がいたにもかかわらず、「いい加減にしておけよ」と軽くたしなめただけで後は笑って見ていた、という異常さ。
  4. さらに体育祭の日には手足を鉢巻きで縛られ、ガムテープで口を覆われるというとんでもないいじめの現状を目撃したにもかかわらず、それを止めさせただけで深く追求しなかった教師がいたこと、総じて教師たちは見て見ぬふりをしていたらしいこと。

 つまり一言でいえば
「学校は明らかにいじめ(それも自殺につながるような深刻ないじめ)の事実を知りながら何の対応もせず、そのために生徒を死なせてしまったことの責任を回避するために、教育委員会と総ぐるみで隠ぺい工作をしている」
ということです。

 しかしそんなことが、あるのでしょうか? 明らかないじめの目撃者であれば、普通の人なら何らかの手を打ちます。ましてや教師です。それがこぞって手をこまねき、心ある生徒の訴えにも耳を貸さず、ひたすら無視し続けた、そして被害者が自殺するやいなや、あったことをないことのように話し、生徒に口止めし、問題を矮小化させて逃げ切りを図る、そんなことが本当にあるのでしょうか?

 私は基本的に教職員を信じる立場にいます。時には私をもってしても庇う気になれない教員もいますが、九分九厘、あるいはそれ以上の確率で、教師と呼ばれる人たちはまじめで誠実で、愚直なまでに仕事をし、子どものために労を惜しまない人たちだと信じています。今問題となっている中学校の職員も大津市教委の人たちも、おそらく似たような人たちです。なのになぜそういうことになるのか。

 実はこれには非常に類似した二つの事件があります。
 ひとつは前述の「大河内清輝君いじめ自殺事件(愛知県西尾市中学生いじめ自殺事件)」、もうひとつはさらにその8年前に起こった「中野富士見中学校いじめ自殺事件(いわゆる『葬式ごっこ』自殺事件)」です。大津の事件は詳細にはっきりしない部分があるものの、この三つにはきわめて強い類似性があるのです。

(この稿、続く)