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「神戸酒鬼薔薇事件の教えてくれた四つのこと」~事件は終わるまで分からない

 今日5月25日はいわゆる「神戸連続児童殺傷事件(あるいは「酒鬼薔薇聖斗事件」)」で、被害者児童が行方不明になった日です。その二日後の27日、被害者の頭部が中学校の校門前にさらされました(1997年)。
 これに先立つ3か月前より、神戸市須磨区では立て続けに2件の少女殺傷事件が起きています。それを含めた3件をまとめて神戸連続児童殺傷事件と言いますが、この事件は様々な教訓を私に残しました。

 一つは、「凶悪な事件はそうは簡単に起こらない」ということです。
 同一地区で半年の間に起きた三つの事件を、「手口が違う」という理由で別個のものと考える報道がほとんどでしたが、実際には同一犯人でした。考えてみれば当たり前です。子どもを対象とした(親族以外の)殺人事件など、めったにないのです。その「めったに起こらないこと」が立て続けに起こったとすれば、それは同じ人間の仕業だと考えるのが普通でしょう。しかし当時、そうはなりませんでした。

 二つ目は「目撃情報のいい加減さ」ということです。
 この事件では「いつ被害者の頭部が校門前に置かれたか」というのが大きなテーマでした。様々な目撃情報によって、第一発見者が通りかかる数分前まではなかったのでごく短時間の間に置かれたと推定されましたが、実際にはかなり早い時間から置かれていました。「私が通りかかった時にはなかった」と証言した人々は、あったものを見ていなかっただけなのです。しかしそんな重大なものに気づかなかったということを自分自身認めたくなかったので「なかった」という言い方になったのでしょう。無意識が記憶をゆがめ、発言にバイアスがかかります。目撃情報というものはそういうものです。私たちの目は、驚くほど“事実”を見ていません。

 第三の点は「マスコミのいい加減さ」
 報道は最後まで「ゴミ袋を持った身長170センチ前後の筋肉質で短髪の男」を追っていました。「捜査本部によると」といった表現がついたので私たちもそんな犯人像を思い浮かべていましたが、実際はまったく違った犯人でした。警察がワザと偽情報を流したとも考えられますが、いくらなんでもこれだけ違った犯人像となると警察の仕業とは考えにくいでしょう。警察とメディアとの信頼関係にかかわります。
 また車両に関しても「黒いセダン」や「白い車」「スクーター」などかなりの目撃情報が出ましたが、どれもこれも無関係でした。
 様々な“専門家”“識者”が大量の発言をしましたが、そのほとんどは完全な的外れでした。マスコミで発言する人にはいい加減な人がいる、ということは知っていましたが、ここまで不真面目な世界だと思い知ったのはこの時が最初です。

 最後に、「校長の資質」というのが、この事件から思い知らされたことの一つです。
 被害者の通う小学校の女性校長と、犯人の通う中学校の男性校長の力量の差は歴然としていました。
 犯人が逮捕されたあと、不用意に「事件が解決しましたが、どう思われました?」と質問した記者に対し、「何が終わったのですか? ジュン君は帰ってこないじゃないですか」と真顔で問い返す女性校長は、真から誠実で子ども思いの人です。それに対して中学校の男性校長は脇が甘く、中途半端な発言でマスコミを敵に回したばかりに叩かれ続け、1年近くも経った卒業式の夜に風俗へ通う姿が写真に取られ再就職の口も失います。ほんとうは気持ちの良い好々爺なのです。しかし危機管理という点ではまったく無能でした。
 事件に際して最低3人の代表者がメディアの前に立ち、深々と頭を下げるという謝罪の仕方がパターン化したのは、このころからだったように思います。