「学習課題と学習問題」

 昨日はごくろうさまでした。
 遅刻して入って行ったわけですが、教室に入るとすぐに、いい授業だと分かりました。

 途中から入っていった授業を見るコツは板書を読み取ることです。板書を見てそこまでの授業の様子がわかるクラスはよい授業をしています。なぜそう言い切れるのかと言うと、途中から授業に入った私たちの視点と、授業中にぼんやりしてしまって流れの分からなくなった子の視点は、同じだからです。

「あれ、何するんだったっけ?」と子どもが思って黒板を見上げるとそこに「学習問題」が書いてある、今日やるべきことが書いてある、そしてどこまで進んだか分かる、そういう授業だと、繰り返し戻っていけるのです。
 黒板に「学習問題」と「学習課題」というカードが張ってあるだけで、授業は2割増くらいに分かりやすくなります。

 20年以上前、「学習問題」や「学習課題」という言葉が広がり始めた時、「〜問題」はよかったのですが「〜課題」の方は定義に苦労しました。
「ある程度解決の見通しをもった仮説」だとか「どうしても解決したいというところまで高まった学習問題」だとか、あるいは「『〜なのに』『〜なのはなぜだろう』というかたちで記述できる疑問」だとかいろいろな言い方をしました。
 しかし20年もあれこれ考えて、落ち着いたのは、結局「今日やること」です。私はそう思っています。

 内容によっては「今日身につけること」「今日解明すること」「今日はここまで進めるという作業の目標」とさまざまに言い換えが聞きますが、要するに「今日やること」でしかありません。「学習課題が座る」というのはその、「今日やること(=課題)」に児童生徒が食いついたという状態を表します(品のない言い方ですがこれがぴったりくる)。
 そうなると「学習課題」のない授業が存在しないことは明らかです。

「学習問題」のない授業は存在します。例えば体育でバスケットボールのシュートの精度を上げようという授業では敢えて「学習問題」など用意する必要はありません。ここで手順を間違えて「シュートの精度を上げるにはどうしたらよいだろうか」といった『学習問題』を作ってしまうから話が厄介になるのであって、授業はまず「今日やること(=学習課題)」を決めててから前後を固めるのです。

「学習課題」は「今日やること」、「課題が座る」は「子どもが食いついた状態」

 覚えておくとけっこう役に立ちます。