カイト・カフェ

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「知の霊媒師」~教師とはそういうもの

  このブログも8年目となると、そろそろ話題にも事欠くことになります。読み手は代わっても使い回しはしたくないと意地になっても、結局は同じ人間の頭の中から出てくることですから、まったく同じ内容をただ書き直しただけ、といった場合も少なくありません。
 しかも困ったことに、書き直した方がむしろ良くないというケースもあるのです。

 今日は、先日ちょっと話題にした「なぜ毎時間毎時間、授業のたびに始まりと終わりの挨拶をするのか」について書こう思ったのですが、書き上げた文を読み直したら昔の方が良かったので、いったん全部捨て、4年前の文に多少手を入れて再録します。

 授業の始まりと終わりのあいさつを、しっかりしましょう。

 ところで、勉強を教わるキミたちが私に向かって「お願いします」「ありがとうございます」というのは当然だとしても、私も一緒になって「お願いします」「ありがとうございます」言うのは何故か、考えたことがありますか?

 それは実は、この教室の中にたくさんの神様がいて、その神様に対して、「お願いします」「ありがとうございます」と言わねばならないからです。

 例えば、古代ギリシアアルキメデスは、戦乱の最中にも地面に図形を書いて研究しているような人でした。その図形を敵国の兵士に踏み潰されたために「私の円を崩すな」と叫んで逆に殺されてしまいます。

 中世ヨーロッパにいた錬金術師たちは、「金以外のものから純金を生み出す」というその本来の意味ではまったく目的を果たせず、生涯を馬鹿なことに費やした人たちです。しかし彼らは金以外のたくさんのものを生み出し現代の科学に寄与しました。その意味では科学の神様たちなのです。

 19世紀に生きたエヴァリスト・ガロアという青年は、つまらない決闘のために20歳で命を落とした人です。しかし死ぬ直前に書いた数学の論文は「ガロア理論」として今日も大変な力を持っています。

 カール・マルクスは何人もの子どもを死なせながら「資本論」を書きましたし、血を吐きながら歌を詠んだ正岡子規、身を削って絵を描いたゴッホロートレックムンク、自らのレクイエムを完成できずに死んだモーツァルト・・・
 たくさんの人が学問のために身を奉げました。大変な貧乏をしたり家族を死なせたりしながら学問を続けてきたのです。

 私がキミたちの教えることの大部分は、そういう人たちが発明したり発見したりしたことです。私自身が見つけ出したことは、ほとんどありません。 その意味では私たちは一種の「知の霊媒師」なのです。
 ですから私を尊敬したり、私を素晴らしいと思う必要はありませんが、私の後ろにいる多くの神様のことは、尊敬し信頼を寄せなければなりません。

キリスト教を信じる人は、十字架の向こうに神様を感じるから拝むのです。十字架という金属の固まりが大切だからではありません。仏像を拝む人も木の像を拝んでいるのではなく、仏像を通してその先にいる仏様を拝んでいるのです。同じようにキミたちは、私を通して私の後ろにいる神様たちを拝む必要があるのです。私たちはそうした神様に囲まれながら勉強しているのですから。

 それではみなさん、起立! 礼!
 「お願いします」