カイト・カフェ

毎朝、苦みのあるコーヒーを・・・

「重複能力の話」~ひとつの能力では食えなくても、二つ、三つと重なれば・・・

 私は若いころ、自分が何かの天才であるという想いに支配されていました。なかなか器用な性質でしたので、多くのことが「そこそこ」にできたからです。そのうちのどれかに才能があって、それを捉えれば絶対に成功するはずだ、と思いこんでいいました。しかし何の天才か、それが分からない。

 器用貧乏の背負う十字架は「将来が決められない」というものです。何かを捨てて何かを選んだ時、捨てた方に真の才能があったらたまらないと、そんな恐怖に取りつかれているのです。しかしこの齢になれば(というよりはかなり以前から)分かります、器用貧乏は結局“貧乏”なのです。どれ一つをとってもそれで“成功”するほどの力はありません。それで最低の飯を食うことすら、容易ではないのです。
 しかし―

 

 以前紹介した「アスペルガー症候群だっていいじゃない」(しーた著)の中にこんな話がありました。
「わたしは、文章を書くのは好きだがそれでご飯が食べられるほどの力はない。絵もそこそこに上手いけど、これもご飯の種にはならない。しかしそのそこそこの“文章”とそこそこの“絵”を合体させたマンガなら、人様に見せて恥ずかしくないような仕事ができるのかもしれない、そう考えた」(大意)

  こうした考え方は初めてでした。ただこの文章を見た時、自分は教員になってほんとうに良かったなあと思いました。なぜならあれもこれも少しずつかじる私には、あれもこれも少しずうやらなければならない教員は一番向いていたのでですから。

 音楽が好きだった、本が好きだった、コンピュータが好きだった、芝居をよく見た、絵を描くのが好きだった、美術展にもよく行った、仏教にはまったことがある、キリスト教を少しかじった、突然スキーを始めた、バスケットボール部にいたことがある、長距離走が得意だった・・・、こういったことが全部役立つ仕事は、おそらく義務教育の教員を置いてほかにありません。

 しーたさんの文を読んで、「重複能力」という言葉を思い浮かべました。「一つひとつは大したことがなくても複合させることで意味を持つ能力群」とでも定義しましょうか。そう考えると一人ひとりの子どもたちの力も、改めて見直すことができるかもしれません。

「あの子は◯◯と△△にわずかな才能がある、それを複合能力として生かせる道はなにか」
 そんなふうに考えるのです。そしてあれにもこれにも手を出してそこそこの成果を上げるような器用貧乏な子には、「キミは義務教育の先生になるといいよ」と耳元でささやけばいいのです。

 ただし、将来、同僚として一緒にやって行ってもいいような子に限ります。