カイト・カフェ

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「好きなことを”特技”程度には高めておくこと」~夢の持ち方①

 私の甥に、自己表現という点では天才的な子がいて、高校生の頃、自分の将来についてこう言って驚かせたことがあります。
「SuperTさん、オレ、自分のやれることの中にやりたいことがないんだよね」
 ああそうなんだよな、私の子どもの頃の悩みも結局そういうことだったんだよな、と思いました。

 やりたいことがないわけではない。しかしそれは今の実力では簡単にはできそうにない。しかしできそうなことの中にはやりたいことがない。
 言ってみれば単なる怠け者のたわごとですが、当事者にとっては深刻な問題です。

 卒業式のシーズンになり、卒業生たちは「将来の夢は?」といった質問をされることが多くなっています。こうした時、かなり現実的な希望を持っている子はいいのですが、内心で分不相応な夢を持っているような子は言葉を失います。

「子ども歌謡コンテスト」とか何かで入賞していればいいのですが、何の実績もないのに歌手になりたいなどと言ったら笑われる・・・そこで「今はなりたい仕事は決まっていませんが、高校に入ってから・・・」といった言い方になるのですが、そんなふうに先延ばしにしていいものではないような気もします。

 昔、読んだ本の中にこんな話があります。
「自分の好きなことを仕事にする」というのは理想だが“好きなこと”の構造は単純ではない。例えば「歌を歌うことが好き」の一番軽いレベルでは“娯楽”だが、一歩深まれば“趣味”の段階に入る。その“趣味”が昂じて“特技”のレベルまで行くと「職業」が遠くに見えてくる。

 娯楽も趣味も特技もみんな「好きなこと」です。しかし「仕事にする」には“特技”の段階まで行って、それでもなお困難です。しかしとりあえず「好きなこと」を“特技”のレベルまで追い込んでおかないと話になりません。

 徒然草の中にこんな話があるそうです(第150段)。
(原文)
 能をつかむとする人、「よくせざらむ程は、なまじひに人に知られじ、内々よく習ひ得てさし出でたらむこそ、いと心にくからめ」と常にいふめれど、かくいふ人、一芸もならひ得ることなし。いまだ堅固かたほなるより、上手の中にまじりて、誹り笑はるゝにも恥ぢず、つれなくて過ぎてたしなむ人、天性その骨なけれども、道になづまず妄りにせずして、年を送れば、堪能の嗜まざるよりは、終に上手の位にいたり、徳たけ人に許されて、ならびなき名をうることなり。天下の物の上手といへども、はじめは不堪のきこえもあり、無下の瑕瑾もありき。されどもその人、道の掟正しく、これを重くして放埒せざれば、世の博士にて、万人の師となること、諸道かはるべからず。

(現代語訳)
 芸能を身につけようとする人で、「うまくできないうちは、なまじっか人に知られまい。内緒でよく練習したうえで人前に出るのが理想的である」と言う人があるけれども、こんなことを言う人は、一芸も習得できることはない。
 未熟なうちから、上手な人に交じって、笑われようとも恥ずかしがらず、平気で押し通して稽古に励む人は、生まれつきの才能がなくても、中途で休まず、練習を我流にせず何年も励んでいると、才能があっても芸にうちこまない人よりは、ついには上手の域に達し、人徳もそなわり、世間からも認められ名声をえるものである。

 天下に聞こえた芸能の達人といへども、はじめは下手との評判もあり、欠点もあったものである。
 けれども、芸能に定められたいましめを正しく守って、勝手気ままにしなければ、その道の名人になることは、どんな道でもかわることはない。

 とにかく始めにゃ始まらないということです。
 とくかくやらせなければ始まらないとも言えます。