カイト・カフェ

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面白くもない勉強をする〜だから社会科は難しい②

 こういう子はいます。
「ぼくは好きなことだったら何でもがんばれるんだ」
 保護者にも「ウチの子はゲームだったら何時間でも集中してできるのだから、集中力も忍耐力もあると思うのですが」。
 そういう話を聞くたびに、内心思ったのはこういうことです。
「好きなことですら続かないようならその子は病気だ」

 さて、昨日は社会科では出てくる用語のひとつひとつが大量の意味や属性を持っていて、それがきちんと説明されていない、「だから社会科は難しい」というお話をしました。もちろん福沢諭吉の「学問ノススメ」の内容と歴史的意義などといったものまで書き始めたら、教科書はあっという間に百科事典並になってしまいます。したがって「福沢諭吉は『学問ノススメ』を書いて学問の重要性を説いた」くらいで済ませなくてはいけませんし、こんな書き方だとそれぞれが丸暗記せざるを得なくて「だから勉強はつまらない」といったことになりかねません。
 こうした事情は社会科だけでなく。他の教科についてだって言えます。
 例えば先日、原田先生がやっておられた塩化銅の電気分解など、確かに予想どおり銅が出てきて、実験のできの良かったチームはより多くの銅が採取された、それはいいのですがここで「で、これってどういう意味があるの」と本質的な問いかけを始めるとキリがなくなります。

 算数はいいのですが数学の立体の体積や表面積など、「オレ、学校を出たら絶対に使わないケド」とブーたれる子が出てくるのもやむを得ないところです。
 こうした子の「ちっとも面白くでもない勉強を、どうしてやらなきゃいけないの?」という問いかけに、どう答えたらいいのでしょう。

 答えのひとつは、
「面白くでもない勉強を続けないと、面白いことがやってきたときにそれを捕らえそこなう」
ということです。

 例えば、書店で「ヒュースケン日本日記」 (岩波文庫) という本を目にしたとき、ヒュースケンの名を知らない人は何も考えずに通り過ぎてしまうでしょう。「え、あのヒュースケン、本を書いていたんだ」と思う人はこの無類に面白い本を手に取ることができます。しかしその本が「無類に面白い本」だと感じるためには、たくさんの「面白くでもない勉強」を続けておく必要があります。

 私は基本的に文型人間ですから中学生のときにやったかもしれない(たぶんやったのでしょう)「塩化銅の電気分解」のことはまったく覚えておらず、そのために捕らえそこなったたくさんの「面白いこと」もあったのかもしれません。たぶんありました。覚えていれば自分の何かの作品を銅メッキ(塩化銅ではできないと思いますが)しようと、本気で取り組んでいたのかもしれません。

 しかし星の名前のいくつかに記憶があり、そのことは今もギリシャ神話を読んだりするときに楽しみの源泉となっています。以前お話しましたが()、アニメの「セーラームーン」を見ていてさえも、星に関する知識のある人はない人よりもはるかにウキウキと見ることができます。

 今の「面白くでもない勉強」は知識がキラキラと輝いて価値あるものになるための前段階の、ダイヤモンドの原石なのです。ダイヤモンドを手に入れるためには、その見てくれの悪い石を山ほど抱えていなければならないのです。

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