カイト・カフェ

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「センスの違い」~被災地に振袖や礼服を送った知恵者たちの話

 齢を取ると涙もろくなるというのは多分ほんとうで、私も若いころはまず泣くということはなかったのに、ここのところ妙にビービー泣くことが多くなっています。感情移入の仕方か、持っていく場所か、または自分の立って寄る立場が違ってきているのかもしれません。

 昨日泣いたのは成人式です。テレビでニュースを見るたびに涙ぐんでいるのです。例えば、結婚式前夜の花嫁のように親に感謝の言葉を述べる娘の映像を見てはビー、逆に子どもに贈る親の言葉を聞いてはビー、中でも感動したのは震災の被災地での成人式で、何もなくなった被災の街に、華やかな振り袖姿が歩いて行くのです。聞けばボランティアによって全国から振袖が集められたといいます。一生に一度の日に振袖を着ることのできた被災地の子は、どんなに幸せだったことでしょう。それとともに、こうした時に振袖の必要を思いつき動き出すことのできる人たちはどんな人たちなのだろうかと、不思議に思うとともにほとほと感心させられました。
 結婚式にも使えるからといった理由で成人式に着物をつくってしまう人は案外います。しかし結婚式に使うことは少なく、使ってもそのあとはめったに袖を通すことはありません。振袖は非常に高価であるにもかかわらず、呼びかければ支援物資として出てきやすいものなのです。しかしどうしてそのことに気づけたのか。

 そう言えば震災直後に全国から送られた支援物資の中で、最も喜ばれたもののひとつが式服だったという話もありました。あんな悲惨な状況の中でなぜ式服がと思ったのですが、悲惨だからこそ必要なものでした。毎日毎日、日に何回も死者を送りださなければならなかったからなのです。しかしあんなたいへんな時期に支援物資の中に、式服を含めた人たちの感性というものもある意味、恐ろしいものです。センスがまったく違うのです。

 昔から「家事には火を持って行け(現場は水びたしで暖も取れないから)、水害には水を持って行け(水が汚れて飲めないから)」と言いますが、他人が何を必要としているかを察知する能力は、やはりセンスとしか言いようがありません。私もそれほど冷淡でも不親切でもないはずですが、この「気づく」という部分では他の人に一歩も二歩も遅れます。

 気づきさえすればいくらでも努力したり犠牲を払ったりできると思うのですが、気づかなければ始まりません。
 ホントに嫌になります。