カイト・カフェ

毎朝、苦みのあるコーヒーを・・・

「まあ、まあ、まあ」~論破ではなく、からめ手の方がうまく行く場合が多い(ようだ)

 2ちゃんねるというインターネット上の巨大掲示板が有名になったのは2000年5月3日の、いわゆる「西鉄バスジャック事件」のときです。
ネオむぎ茶」を名乗る犯人の少年が反抗予告を書き込み「2ちゃんねらー」と呼ばれる掲示板の常連たちがリアルタイムで犯行を追ったからです。その後、以前を上回る人たちが「あげ」だの「モナー」だの隠語だらけのこの掲示板に参入してきました。かくいう私もその一人です。

 今でこそこの掲示板の常連たちは30代・40代が中心ということも知られてきましたが、当時はオタクを中心とした若者の場だという思い込みがあって、若者を片っ端なぎ倒してやろうと、年甲斐もなく熱くなったのです。

 で、実際はどうだったかと言うと、この齢まで年季を摘んできたいい歳のオヤジが、しかも勝てそうな掲示板だけを選んで論争を仕掛けるわけですから基本的には“勝てないわけがない”。

 ウンザリして諦めるということのない人たちですが、次々と矢継ぎ早に仕掛けるといつかみんな黙ってしまう。私の書き込みのあとに反論や異論が書かれず、そのまま更新が滞ればそれで私の勝ちです。そして何枚かの掲示板(テーマごとに「板」といったりしていますが)を更新停止に追い込み、鼻が高く、なかなかいい気分でした。ところが・・・
 そのあと意外なことが起こるのです。

 一週間か10日ほどすると、死んだはずのその板が生き返ってくるのです(つまり、再び書き込みが開始される)。しかもそれまでの議論を完全に無視し、テーマだけを頼りに同じことが蒸し返されます。

 しかたなく私も再び応戦をするのですが、言いたいこと、言えることは結局同じで、しかも同じやり方をすれば必ず黙らせることができる。そして黙ったあとでまた誰かがまた始める、それまでの議論を全部無視して、というイタチゴッコです。

 そして私は理解しました。相手を論理で潰しても何も収まらないのです。この人たちは議論をしたいのではない。とにかく言いたいのだ。いえば気が済むかどうか分からないが、とにかく言いたい、相手が何を言うかは問わない、そういうことなのだと。

 それは、学校に物申す多くの人々も同じなのです。
 皆が皆とは言いませんが、とにかく言いたい、言わずには済まない、そういう人が世の中にはいくらでもいます。彼らを論争で打ち負かしても、恨みが残るだけで何の益もありません。
 そういう人たちをおとなしくさせる方法は一種のからめ手で、正面からぶつからず、「まあ、まあ、まあ」となだめるやり方です。

「まあ、まあ、まあ」と形だけやってもダメで、「お気持ちは分かります。よく承りました。あなたのことは最大限に尊重します」と誠心誠意伝えていくのです。なぜならその人たちが求めているのは社会の中で尊重されること、重きを置かれることなのです。言ったことが実現するかは二の次です。

 ただしあのやりかた、まるでウマの首筋を叩いて「どう、どう、どう」とやっているのと同じに見えて、私は好きでもなければうまくもありません。
 しかしもちろん、とても有効な手段です。