カイト・カフェ

毎朝、苦みのあるコーヒーを・・・

「あれは何者だろう」~車の前を遮られて火のようにクラクションを鳴らすあの少年

 駅の駐車場で人を待っていたら、突然甲高いクラクションの音、それも小刻みに鳴らすのではなく、2〜3秒も鳴らしてはまた鳴らしなおすといった調子で、歩行者は足を止めて振り返り、プラットホームのいた人も駅舎のガラス戸の向こうにいた人も一斉にこちらを見ています。私も思わず外に出て、音のする方を見ました。

 見ると、歩道に沿って駐車していた黒塗りのクラウンの前に、白のプリウスが停まって行く手を遮っているのです。そもそもクラウンもプリウスも停車してよい場所ではありません。
 あとから入ってきたプリウスにしても、あれだけ鳴らされれば移動してもよさそうなものを、意味が分からないのか意固地になっているのか動こうとしません。そのうちクラウンのドアが開いて、やくざ風の男が拳銃を持って・・・
となったらどうしようと思ったのですが、出てきたのは髪の毛を爆発したみたいに逆立てた20歳前後の男の子でした。

 その時ちょうど私の待ち人が戻ってきたので、続けて何が起こったのかよく分からないのですが、男の子は車に戻り、プリウスは場所を空けて、無事クラウンは駅を後にしました。
 さて、あの男の子は何者なのでしょう。

 たかが前を遮られたくらいで、あれだけクラクションを鳴らせること自体が分かりません。私にとって(おそらくほとんどの日本人にとって)、クラクションはちょっと押して感謝を伝える装置、警告に使うにしても“ちょっと、こっち向いて! 気づいて!”くらいの意味にしか使いません。クラクションの本来の働きをフル稼働して怒鳴り続ける日本人というのはそうはいないでしょう。

 しかも数百人が見ている中で、堂々と姿を曝し抗議に行く。もちろん好意的な視線が集まっているわけではないその中を歩いていく。もし抗議した相手が尋常の人でなかった場合、ヤクザとか、パニックに陥りがちな人(もしかしたクラクションを鳴らされた恐怖で、ブルブル震えながら手の中でゆっくりとナイフを開いているのかもしれない)とかだったら、何が起こるかわかりません。そういったことにも一切顧慮しない。

 私はちょっと考え込んでしまいました。ある意味、すごいヤツに違いないからです。
・・・で、いくら考えても分からないので、学校にきてから原田先生をつかまえて、「若い者同士ってことで教えて欲しいのだけれど」と前置きして訊いてみました。すると原田先生のおっしゃるに、
「黒塗りのクラウンという時点で、まずそのスジの人かチンピラでしょう。それだけの資金が流れ込んでるわけだから。
 そういう人たちは力を誇示しないわけには行かない。弱気だと思われたくない。自分の前を押さえられた状態で、引き下がることができなかったのでしょう」
(なるほど、男がすたるってわけかァ)
「もしそのスジの人でないとしたら、よほど切れやすい、病的な人ということになるかもしれませんね」
(もともとそういう資質を持っていないと、ヤクザな道へは進まない・・・)
「クラクションを鳴らすことに抵抗があったり怯えたりするような人は、オレオレ詐欺みたいなことも怖くてやらないでしょう」
(フムフム)

 黒塗りのクラウンで力を誇示しているのにも関わらず抑えられた、無視された、それは我慢できることではない、というのは理屈としては理解できます。しかしそこには「自分の車の前に入ってきたヤツは自分を押さえにかかった」という、言わば「人間関係は力関係だ」という信念があります。
「たまたま空いているように見えたから入って来た状況の読めない人」とか「短時間なのでよろしく、といった程度の人」だという考え方は微塵もありません。
 まだ少年といってもいいような感じの子でしたが、どこかでその子は人間関係は力関係だと学んだのでしょう。

 いずれにしろ気の毒であり、危険でもある子どもです。