カイト・カフェ

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「アクセル・ブレーキ」~同時に踏んではいけないのに、子育てでは要求される矛盾

 その子を誉め、意欲を掻き立て、能力を最大限に引き出そうとする教師や親の活動は、いわば車のアクセルを踏むようなものです。それに対して子どもの好ましくない動きを抑えようとするのは、ブレーキを踏むのと同じでしょう。教育はいわばこのアクセルとブレーキを交互に踏み分ける活動です。

 ところが、生徒指導のある局面で、「どうしても友だちを殴りたくなったその子の気持ちもわかってあげて」とか、「ものを盗らざるをえなかったその子の気持ちに心を寄せて」とかいった妙な論理が出てくる場合があります。同僚から、あるいは保護者から。
 しかしそれは筋も場も違います。

 何も私はその子の人格を全否定しようというのではないのです。指導し、反省させ、抑えきりたいと思うのはその子の悪しき“行為”であって“人格”ではありません。その子が自分のやったことの罪深さを知り、反省して相手に心から謝罪すればよいだけのことです。罪のためにその子を嫌いになるわけでも、ダメなやつだとか悪いやつだとか極めつけるわけでもありません。それとこれとは別です。
「罪を憎んで人を憎まず」というのは、そういうことだったはずです。

 ところがこちらが真剣に叱り、指導している最中に、横合いから「そうは言ってもこの子の気持ちも分かってやらなくては」とか「誰かが受け入れてやらなければ」といった物分りの良い茶々を入れる人がいます。それはこちらが必死にブレーキを踏んでいる最中にアクセルをふかすようなものです。横からアクセルを強く踏み込まれれば、こちらは更に厳しくブレーキを踏まなくてはなりません。それでは車(子ども)が傷みます。

 ブレーキとアクセルが同時に踏まれることはありません。ブレーキを踏むときはしっかりと踏み、アクセルを踏むときはアクセルだけを踏むのです。その子を理解し、受け入れ、頑張れ、大丈夫だ、というのは日常の活動であって、生徒指導の場に持ち込むべきものではありません。

 逆に言えば、いつか強烈なブレーキをかける日のために、日ごろから繰り返し、静かにアクセルを踏んでおけということです。