30人31脚のこと

 かつて安倍内閣教育再生会議の席上、小谷実可子という人が「『30人31脚』はテレビで見て、非常に感動した。30人が息を合わせないと進めない、ここから助け合うことを学べるので、学校でもすぐ取り入れたらいいのでは」と発言したことがあります(第3回 規範意識・家族・地域教育再生分科会《第2分科会》 議事要旨 p.2〜3)。

「ああ(学校を)知らない人が見ると30人31脚はそんなふうに見えるのだ」と思うと同時に、その「知らない人」が、日本の教育に対して私より遥かに高い発言力を持っていることに相当イラついたことを覚えています。

 確かにテレビの「30人31脚」はすばらしい、しかしそれはテレビに出てくるチームがすべての苦難を乗り越えた各地のエリートチームであること、そしてテレビカメラは感動的な場面を選択的に放映しているのであって、「その他の部分」では何が起こっているか誰も知らないということ、この2点を抜きにして初めて言えることです。少なくとも私は、30人31脚やドッジ・ボールのためにクラスがバラバラになったり、勢いを殺がれてしまったりした例をたくさん見てきました。また私自身が頭に思い浮かべても、がうまくやりおうせる自信がないのです。

 うまく行かないのは、多くの場合、「チームとして勝ちたい」という思いと、30人しか出られない(ドッジボールは12人)という現実の整合に、失敗したことに端を発しています。試合に出られない子をどうするか、それが大きな関門なのです。

 これが中学校の部活なら何の問題もありません。なぜなら部活は最初から目的集団で、勝つことが優先されますし、そのためには強い者が試合に出なければなりません。自分が出たかったら強くなるしかないのです。さらに、そうした競争が嫌なら、避けて別の部活に移ればいいという選択権があります。

 けれどクラスはそれと違い、単に同じ年齢で同じ地域に住む子どもたちが、学校の都合で分けられただけの(最初は)まったくの無目的集団です。離脱も許されていません。

 もちろんそんな曖昧な集団を、何らかの目的集団に育てていくのは担任の重要な仕事ですが、その際絶対に必要な条件は「みんなで行う」ということになります。クラスが選択できない以上、そのイベントへの参加は「全員」でなければならないし、その喜びも悲しみも「みんな」で分かち合うものでなくてはなりません。

 35人のクラスで30人31脚に出場しようというとき、試合に出られない5人をどうしましょう。

「5人には応援という重要な役割がある」というのはまやかしです。子どもは納得させられても、その保護者まで言いくるめることはできません。批判が表に出なくても、腹の底には不満が残ります。なぜならそれを承知でそのクラスを選んだわけではないのですし、ウチの子の足が遅いなどということは最初から分かっていたことなのですから。

 30人31脚や小学生ドッジボールの覇者たちがこの問題をどうクリアしていったのか、裏の裏までのぞいてみたいと、私はいつも思っていました。