「必読書のあった時代」

 小学校の5年生か6年生のとき、母が新聞から「大学生の愛読書第一位は『カラマーゾフの兄弟』」という記事を拾い出して話してくれました。それで大学生になったらそれを読むものだと思い込んで、実際に読みました。『カラマーゾフの兄弟』はとっつきの悪い小説で最初の200ページ位をかなり我慢して読まないと楽しめない本なのですが、そこを過ぎると一気呵成、かなり面白いので私はこれまでに3回も読んでいます。

 大学に入ったら読まなければならない本というのは他にもあって、まずマルクス主義経済学の中核をなす『資本論』、そして実存哲学の中心的書籍であるサルトルの『嘔吐』と『存在と無』です。しかしこちらの方は全くダメでした。小説の『嘔吐』こそ読了できたもののさっぱり理解できず、『存在と無』『資本論』にいたってはかなり早い段階で挫折してしまいまいました。

 特に『資本論』は友だちと分担してレジュメまでつくり、勉強した部分が手垢で真っ黒になるほどがんばったのに最初の100ページ(上下2段組)ほどで頓挫です。手垢のついた部分も先輩に自慢すると「SuperT、本を読むときは手を洗ってからにしような」と言われてがっかりしただけでした。

 大学生が読むべき4冊の本のうち3冊で挫折したことはけっこう響きました。同い年の他の子たちが理解し読破できるものが、私にはできないというのは辛いところです。ただし、これは後から気づいたことですが、私が大真面目でそれらに取り組んでいたころ、すでに時代は変わっており、『資本論』も『存在と無』ももう大学生の読むべき本ではなくなりつつあったのです。また、確かに私たちより上の世代はそれらを必読書としていましたが、誰もが理解していたわけではなく、理解したふりをしていただけでした。

 しかし大学に進む以上は読むべき本があるという当時の自意識は、今考えても重要なものでした。大学進学率は男子で40%、女子に至っては10%もなかったころです。私たちは少なくとも4年間、子どもを大学で遊ばせることのできる経済的に恵まれた家庭の子どもたちです。そのことにある種の後ろめたさを持っていたのです。

 マルクスが必読書だったのは、恵まれた私たちの反対側にそうでない人たちがたくさんいることを知っていたからです。そうした不公平な社会情勢について理解しておく必要があると皆感じていました。サルトルを読むのはそうした私たちの生きるべき道を知る必要があったからです。では、そうした必読書がなくなったのはなぜか。

 端的に言って、それは大学に進学できない人の理由が経済的なものから受験学力へと移ったからです。意欲と学力さえあれば誰でも大学に進める時代が目の前に来ていたのです。誰かの犠牲の上に立って大学に進学しているわけではないと、そう考えられる時代に移っていたのです。

 ただし人間の生き方として、それは正しいことだったのでしょうか?

 私たち(正確に言えば私たちより少し上の世代)は負債を負っていたのは日本国内だけではなく世界に対してです。象徴的に言えば戦火にまみれていたベトナムの農民たちです。そうした社会構造は今も変わっていないのです。

現在の日本の豊かさは、世界の誰かの犠牲の上に成り立っているのです。しかし今はだ誰もそのことを言いません。