学校はどうなるのだろう

 選挙公約、年金なんて若者にはぴんと来ないし景気対策といったって具体的な話になるとよく分からない、分かるのは減税とバラマキと教育の三つだけ。増税といっただけで票は減り、減税とバラマキは単純に票を増やす。教育は改革するというだけで票に繋がる。ここ30年以上も続いた選挙の様子です。  その教育改革の中心になった臨時教育審議会(中曽根内閣)や教育改革国民会議小渕内閣)、そのくらいまでは我慢できたものの教育再生会議安倍内閣)となるとそうとうに私たちは傷つきました。再生という以上は前提に「教育は死んだ」という判断があるのでしょう。国のトップにそういわれてはたまりません。しかしこうして教育改革が矢継ぎ早に行われる間、ほとんど議論されなかった重要な点がいくつかあります。  その第一はまずなんと言っても「本当に教育改革は必要だったのか」という極めて本質的な問題です。  残念なことに、私の知る限りこうした「そもそも論」は一度も語られることはありませんでした。基本的に日本人で学校教育に関わらなかった人(教育者として被教育者として)は一人もいませんから、みんなが教育に関するなにがしかの想いを持っています。  ある人は金八先生のような教師に教えてもらいたかったと思い、ある人はもっと英語を勉強しておけばと思い、また別のある人はもっと想像力のある人間に育ててもらえればよかったと思い・・・。そういったそれぞれの想いと現実の教育を比較すると、教育改革の必要性は言わずもがなだとみんなが思ったのです。だから教育をいじることに(教員以外は)ほとんど反対しなかったのです。  第二は「そうした超理想的な教育が、現実の(生身の)教員にできるものなのか」という問題です。この場合「実際にそうした素晴らしい教師がいた」という事実は「だから誰でもできる」という証明にはなりません。  ウサイン・ボルトが100mを9秒58で走ったから頑張れば誰でもできるはずだというのと同じです。そこまで極端なことを言わなくても、100mを11秒台で走る人はたくさんいるのだから、みんながんばって走れるようになろうというのと同じでしょう。しかし教育は計器では計れませんので、多くの人たちは教師が頑張れば(あるいはみんなで教師の質を上げれば)理想的な教育が果たされるはずだと信じたのです。  第三は「本当に教師の質は落ちたのか」という問題です。落ちたとしたらその原因も考えなくてはなりません。  私は少なくとも平成以降に教員になった人々については、現在の勤務条件や給与から考えてこれ以上望めないほど高い水準の教員が集まったと考えています。とにかく教員採用試験は高倍率でしたから、小さく見積もっても頭の良さや努力の傾け方については異常なほどすごい人が集まっています。またこの人たちはもともと勉強が好きですから、技能の習得もあっという間にこなしてしまいます。そうした事実を前提として、「教員の質の低下」を人々はどう説明するのでしょう(実際はだれも説明しません。ただときどき紛れ込んでいる変わり者教員を例に挙げて、質が落ちたと叩いたに過ぎません)。  こうした重要な問題を不問にしたまま、教育はさまざまにいじられ激しく揺すぶられました。その間私たちは児童生徒を守るために汲々として日々を送ってきました。しかしそろそろいい加減おしまいにしたいものです。上記の問題に改めてメスを入れてもいいころかと、私は思っています。