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「怨霊の話」~敷石の下に置いた子どもの遺体を、毎日踏みつける古代の人々

 以前、埋蔵文化財研究所で穴掘りのアルバイトをしていたことがある、というお話をしました。その時のことです。

 場所は現在の〇〇サービスエリアの近辺なのですが、とにかくきちんとした遺物の出ない遺跡で、最初にトレンチを掘ったときに壊してしまった土器だけが完全土器という惨めなものでした。それでも一週間ほど掘り進むと周辺を石で囲まれた珍しい住居跡が出てきて、その入り口らしい部分の平石を取り除くと、そこに埋められた完全土器の口が見えたのです。

 こうした場合、土器を壊さないようにこちら側半分を掘り出し、土器の形を確認して撮影します。この段階の土器が一番美しい土器です。

 撮影とスケッチが終わり、ひびの入った土器の一片を取り除くと、たちどころに全体が崩れ落ちてしまいます。そしてその破片を集めて研究室に持ち帰り、今度は写真をもとに復元作業を行う、それが一連の流れです。

 平石の下に入っていたのは尖底土器といって底の尖ったもので、本来は地面に掘った穴に差し込んで安定させるものです。それが住居入り口の平石の下に置かれていたことには特別の意味があります。そして中に入っていたものが何かは、経験的に分かっているのです。子どもの遺体です。

 子どもの遺体を敷石の下に置いて毎日踏みつけにするというのは現代人には理解しがたいことです。しかし甕棺(かめかん)と呼ばれる大型の甕に入れられた遺骨の多くが傷ついていたことと考え合わせると、おのずとその理由は理解されます。要するに戦闘で死んだ若者や小さな子どもは怨霊化しやすく、祟りが怖かったのです。

 考えてみると私のような年寄りが死んでもなかなか祟るというわけには行かないでしょう。とにかくパワーがない。またこの年まで生きてくると自分の能力でできることはたいていしてきていますから、今さら果たさなければならない仕事がない。枯れ切って祟りようがないのです。

 ところが子どもは違います。実質的に何もしないうちに死ぬわけですからそれだけ恨みも深い(と古代人は考えた)。何しろ天災も伝染病もすべて怨霊のなせる業と思われていた時代です。子どもの遺骸は毎日踏みつけにしておかないととても不安になるわけです。

 私は歴史の勉強を怨霊史から始めるとどんなに楽かと思うことがあります。聖徳太子の業績や大仏造営、平安遷都の経緯など、下って江戸時代の初めのころまでの歴史は除霊や魔除けといった知識がないとどうもすんなりと心にはいってこないのです。

 百鬼が夜行する京都東山の風景がありありと浮かばないと平安仏教の祈りの強さが分かりません。殺人集団としての武士の自覚が、鎌倉仏教の興隆を支えていく様子も、祟りや怨霊の実在を信じないとなかなか理解できるものではないのです。