カイト・カフェ

毎朝、苦みのあるコーヒーを・・・

「小生、生来病弱ニテ・・・」~病弱い養護学級で生活した日々のこと

 昨日はご迷惑をおかけしました。
 (昨日は風邪が酷くて早退しました)

 日ごろあまり睡眠時間をとらないので、家で休んでいても眠れるはずもないと思ったのですが、実際あきれるほど昏々と眠ることができました。久しぶりのことです。

 私は生来虚弱で3歳のときには医師から、「明日の朝まではもたないでしょう」と言われて母を泣かせた親不幸な歴史を持っています。
 幼稚園の運動会も、前日練習のかけっこで3位に入って大喜びで帰宅したのに、興奮が過ぎてぜんそく気味になり当日は欠場。
 当時「お遊戯会」と呼ばれていた発表会では(本当は主人公の一寸法師をやりたかったのですが)本番に登園する確率50%以下ではわき役すらさせられず、一寸法師が都に向かう時に後ろで舞っているチョウの役でした。これだと欠席されても苦になりません。
 しかし予想に反して当日私は登園し、この悲しい役を演じました。

 小学校では1・2年生の間、病弱養護学級に入っていました。当時はそういうクラスがあったのです。たった14人ですが、そのうち二人が大人になることはありませんでしたからけっこう大変だったと言えます。
 朝は体温計測と乾布摩擦から始まるという不思議な日課でしたが、それしか知りませんでしたからそんなものだと思って学校生活を始めました。
 私たちの世代くらいしか知らないと思うのでうすが、今はなくなった制度のひとつとして長期休み前の半日日課というのがあります(今でも他県の学校では残っているみたいです)。教員になって分かったことですが、これは結局先生たちの通知表づくりのための日課なのですね。
 しかし当時は「暑い夏、そんなに勉強もできないから涼しい午前中だけを授業に当て、あとは家に帰す」と説明されており、私たちはそれを信じていました。

 もっとも午前授業を終え給食を食べて下校となると帰宅は1時過ぎになり、一番暑い時間にさしかかってしまいます。私たちのクラスのメンバーには極めて危険な時間帯です。
 そこで全校の中で我々のクラスだけ帰宅が許されず、昼寝をして涼しくなるのを待って下校したのです。これはかないませんでした。眠れるはずなどなかったからです。

 起きたりしゃべったりすると怒られるので静かに我慢しているのですが、その時間が長く長く、ほんとうに我慢しがたい時間でした。
 ただし1時間か2時間、そうしてじっとしていると、遠くからカランカランと音が近づいてきます。担任の先生が薬缶の中にオレンジ・ジュースを入れて持ってきてくれる音です。冷蔵庫のない時代にどうやって氷を用意したのか分かりませんが、水に溶いた粉ジュースに氷の塊りをいくつも入れて持ってきて来てくれるのです。薬缶の中で氷のぶつかり合う音、それがカランカランなのです。とても幸せな音でした。

 小学校・中学校・高校と進むに従って次第に健康になって行ったのですが、決定的に体質が変わって安心できるようになったのは、大学へ進んで一人暮らしを始めてからです。「病気になれん」という気持ちはやはり体を強くするものです。

 ただし、全く無病息災とはいえず、様々に病院と関わって今日に至っています。そしてその時々に思い出があります。またお話しましょう。