平成18年度「『児童生徒の問題行動等生徒指導上の諸問題に関する調査』の見直しについて」によれば、
2.「いじめ」の状況に関する調査について
いじめられた児童生徒の立場に立って、より実態に即して把握できるよう、いじめの定義を見直す。
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【平成17年度調査までの定義】
この調査において、「いじめ」とは、「①自分より弱い者に対して一方的に、②身体的・心理的な攻撃を継続的に加え、③相手が深刻な苦痛を感じているもの。なお、起こった場所は学校の内外を問わない。」とする。
なお、個々の行為がいじめに当たるか否かの判断を表面的・形式的に行うことなく、いじめられた児童生徒の立場に立って行うこと。
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【平成18年度調査からの定義】
本調査において、個々の行為が「いじめ」に当たるか否かの判断は、表面的・形式的に行うことなく、いじめられた児童生徒の立場に立って行うものとする。
「いじめ」とは、「当該児童生徒が、一定の人間関係のある者から、心理的・物理的な攻撃を受けたことにより、精神的な苦痛を感じているもの。」とする。
なお、起こった場所は学校の内外を問わない。
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となります。
大きく変わった点は、
- 「自分より弱いものに対して」でなくてもよくなった。
- 継続的な攻撃でなくてもよくなった。
- その苦痛が「深刻な」ものでなくてもよくなった。そして
- 「個々の行為が『いじめ』に当たるか否かの判断はいじめられた児童生徒の立場に立って行うものとする」
の4点です。
さらにご丁寧にも、「(注1)『いじめられた児童生徒の立場に立って』とは、いじめられたとする児童生徒の気持ちを重視することである。」とあります。つまり「いじめ」の客観的事実があるかどうかを問わず、「いじめられたとする」(=「いじめられたと主張する」)側の気持ちを重視せよというのです。
ですから例えば、元大阪府知事・故横山ノック氏がわいせつ疑惑でマスコミに激しく追及されたとき「オマエら、大阪府知事をいじめて楽しいんか」と叫んだのは、まったく理にかなっていることになります(もちろんノック氏が児童生徒でないことを別とすれば)。
私が子どものころの「帰りの会」などはとんでもない言いつけ合いで、私など毎日のように「今日はT君があれをしました」「これをしませんでした」で十字砲火を浴びているようなものでした。しかし今だったらこう言えばいいだけのことです。「いくらなんでもそんなに言ったらひどいじゃないか。みんな、ボクをいじめて楽しいんか!」これで圧勝です。「いじめで被害者にも責任があるということは絶対ない。いじめる方が100%悪い」は、世の中の常識です。
子ども同士の仲良しグループだっていつまでも不変であるわけはありません。高慢で横暴なボスをみんなで一斉に排除しようとすることだってあります。
例えばスネ夫やのび太が示し合わせてジャイアンから離れるような場合です。しかしこれもジャイアンが「仲間はずれにされたあ〜、いじめだ〜」と叫べば終わりです。いじめの犯人にされたくなかったらいつまでもジャイアンの手下でいるしかありません。
ただしもちろんジャイアンに何か命じられた段階で先に「いじめられた〜」と叫べばのび太たちにも勝算が生まれてきます。徹底的に「先に『いじめられた』と言った者勝ち」だからです。
しかしそんなバカなことはないでしょう。
文科省の18年度定義には、単純に従ってはいけないのです。