カイト・カフェ

毎朝、苦みのあるコーヒーを・・・

「表現力の問題」~書くように考える、書くように感じる

 学校教育目標の中に「表現力」という言葉がよく見られるようになってきています。「本校の生徒は表現力に課題がある」とか、「本校の児童は表現力に欠ける」といった使い方をします。しかし「表現力」の定義そのものがしっかりしている文章に(少なくとも学校内では)私は出会ったことがありません。卑しくも学校運営の構想に中に入ってくる言葉ですから、よく吟味して定義しないととんでもない同床異夢になりかねません。

 さて、ひとことで言って、「表現力」が問題になるのは美術や音楽の場ではありません。もちろん音楽表現や美術表現が重要なことはわかりますが、音楽や美術で表現力不足というのは喫緊の課題とはいえないからです。また現代の子どもが音楽表現や美術表現の上で問題があるなどというのはとんでもない間違いで、この二つについて言うなら、数十年前の私たちと比べると飛躍的に確実に伸びています。

 また「発言力がない」という意味で「表現力がない」という言葉を使う人もいますが、これもお門違いです。それはひとつには人間関係の問題であって、教科教育というよりは道徳教育の範疇に入るものです。
 それに私たちは児童生徒がバンバン発言し、互いをなぎ倒そうとするようなアメリカ型の子どもたちの育成を、本当のところは望んでいません(社会にはそういうタイプの人でないと使えない分野もあり、そうした世界からは交渉で打ち勝つような人材の育成が要請されはしていますが)。発言力などそれほど重要ではなく、日本国内を人生の主戦場とするつもりの子なら、人を倒すよりは空気を読む勉強をしていた方がいいくらいです。
 挙手の上で発言してくれればもちろんそれはよし、しかしせめて指名したときくらいきちんとしゃべって欲しいな、くらいでかまわないのです。

 そうした前提に立つと問題になるのは、言語表現だけということになります。
 自分のうちにある思い、感情、視覚や聴覚を使ってインプットされたものの内容、思考、そうしたものを言語に翻訳し、声や文章に表せることができない、それが表現力の問題の核心です。感情や思考をきちんと言語にできないから無用なトラブルが発生する、表現力がないからこそ余計な苦しみに時間を費やさなければならない、私たちはそのように考えて表現力を希求します。それが「表現力」を必要とする意味です。

 ではどうすれば表現力がつくのかと。答えは簡単で、これはもう徹底的な読書と作文しかありません。

 まず読書によって、言葉そして言葉の組み合わせ、使い方を大量に覚えなくてはならないのです。
 それは単語カードを暗記するのとは違います。例えば「たそがれ」と「夕暮れ」、「夕方」と「夕まぐれ」、「暮れ方」と「暮れ」、「日没後」と「夕闇に包まれるころ」は全部違い、その違いはたくさんの文章を読むことでしか身につきません。それが言葉と言葉の用法を覚えるということです。

 では何のために作文をするのかというと、思考や感情は文章にすることによって初めて生まれるからです。
 私たちは異性を愛する感情が芽生えたから「愛してる」と言うのだと思いがちですが、そうではありません。「愛してる」と言語にするから「愛」が結実するのです。言葉にする前はずっと穏やかなレベルの低い感情だったはずです。

 もちろん美しい風景や美術作品との直接交歓というような場合には言語を媒介にする必要はありません。しかし恋人同士だって直接交歓できる時期はほんのわずかな期間です。

 すべては言葉に置き換えるからこそ存在するのであって、言葉にならない感情も思考も、世の中には存在しません。

 したがって作文を書く上でのコツはただひとつです。それは「書くように考えること」「文章に書けるように感じること」。これについては改めて書きます。