「いただきます」

 学力向上、授業時数の確保、行事の削減ということで最近はかなり下火になりましたが、動物飼育は子どもたちの情操を育てる上でかなり有効な手段だったと、今も私は信じています。

 何十年も前の話ですが、私自身が卒業した小学校はそういうことの非常に盛んな学校で、私のクラスはアンゴラウサギ、隣りはヤギ、ウコッケイ、ブタと、学校全体がまるっきり動物園か農場のような風景で、動物の鳴き声と臭いは、あたりに常に満ちていました。そうした中で非常に多くのことを学んだという思いがあるからです。

 ブタは幼馴染のケンちゃんのクラスで飼育していた動物なのですが、コンクリートを床に張った専用の畜舎(それも手作り)で大事に育てられていました。そして十分に大きくなってからクラスでお別れ会を開いて送り出したのですが、その晩、突然ケンちゃんが私の家を訊ねてきて(と言ってもお向かいの家なのですが)、「どうしよう、今夜、ウチ、トンカツで、ピー子(ブタの名前)のこと忘れて、オレ食べちゃった!」と言うのです。せっかく奮発してくれた親には言えなかったようです。私も困って母に相談すると、「今日出荷したものが今夜食卓に出るわけないでしょ」ということで一件落着しましたが、なつかしい思い出です。

 クラスで一年間大切に育てたブタを出荷して、肉にしてしまうという活動はいまでも可能なのでしょうか? 「そんな可愛そうなことをして、子どもの心に傷がついたらどうしてくれるのです」といった声が聞こえてきそうです。

 しかしブタの大部分は殺して食されるために育てられているのであり、その現実を無視して生活を送らせるのはまやかしです。私たちの肉体は多くの殺生の上に成り立っていてそれゆえに大切にしなければならない。そのことは子どもたちに教えておくべき重要な内容でしょう。

 だから動植物の大切な命を奪おうとするときだからこそ、私たちは「いただきます」と手を合わせてから食事を始めなければならならないのです。

 私たちはブタの肉を「豚肉」と言い牛の肉を「牛肉」と呼びます。そこには「pig」の肉を「pork」と言い「ox」の肉を「beaf」と誤魔化して元の姿を連想しにくくさせる世界とは、決定的に違いう文化があります。生き物としっかりと向かい合うということです。

 ともすれば日常、形式的になりがちな「いただきます」の挨拶ですが、その都度、本来の意味を思い出しながら食事につくのもいいのかもしれません。

*ちなみに「ごちそうさま」は「御馳走様」で、「馳」も「走」も「はせる」「はしる」と、あちこち駆け回る様子を表しています。これは奔走して食事を用意してくれた「人」への感謝の言葉で、動・植・人物への感謝が完結すると思われます。