カイト・カフェ

毎朝、苦みのあるコーヒーを・・・

「プリーズ・フリーズ・プリーズ」~頼むからそこで固まっていてくれ

 先週土曜日の地区の体育館でクリスマス・コンサートがありました。知り合いの先生も参加していたので行ってみましたが、忙しい中でよくこれだけ準備されたものだと感心しました。それとともに一芸も二芸も持っておられる人は、格好良くも羨ましいなあと思いました。私なんぞトランペットはおろかリコーダーも吹けず、吹けるといえばホラくらいなものです。

 さて、そんなすばらしいコンサートだったにもかかわらず、私は心落ち着けて音楽に聞き入ることができませんでした。それは観客席の後ろの方で傍若無人に走り回る保育園児のためです。
 とにかく右から左、前から後ろと行ったり来たり、走ったり止まったり、ときどき無意味な叫び声をあげて暴れまくっています。いったい親は何をしているのかと・・・そう思って休憩後の後半は後ろの方の席に移ってそこから観察することにしました。そして分かったことは、

  1. きちんと座って聞いている子はたくさんいる。 
  2. きちんとしていないまでも何とか静かにその場にいる子もけっこういる。 
  3. しかし走り回る子たちは片時も休んでおらず、飲み物や菓子をもってあっちからこっちへと繰り返し移動している。

ということです。

 親は、いちおう注意しますが子のほうはまったく聞く耳を持ちません。すぐに親の手を逃れて走っていってしまいます。会場の背後であまり大きな音がするとウチの子かもしれないと腰を浮かせて様子を見に行く母親もいましたが、連れ戻して静かにさせるという様子も見られません。
 私は考え込んでしまいました。

 公共の場できちんとできるように育てるというのは、一義的にその子のためです。それができないばかりに大人に睨まれたり陰で疎まれたりするのは、その子にとって何の利益にもなりません。
 しかし本人のためという分を差し引いても、親として格好悪いとか、面目丸つぶれとかいった感覚はないのでしょうか? だって他には子どもをきちんとさせていられる親もいるのです。コンサートのような極めてデリケートな場所で走り回っているわが子なんて、まるで親の子育て能力がゼロだと看板を背負ってふれ回っているようなものです。
 親としてみっともないとか恥ずかしいとか感じて当然だと思うのですが、その様子がない。私はイライラすると同時に不思議で仕方ありませんでした。私の家ではありえないことです(少なくともそんなことがあったら世間から見えないように隠す(=家に連れ帰る)くらいのことは絶対にします。

 そこでふと思い出したのですが、かつて小学校1年生の担任をしていた同僚が、児童のことで母親に強く指導したらこんなものをもらったと、一通の手紙を見せてくれたことがありました。そこには一通り担任の指導の厳しさや理想が高すぎることへの不満が書かれており、そのあとこんな言葉が記されていました。
「私は息子が学校で先生の指示に従わないことにを、むしろ誇りに思っています。こんな小さなころから大人の言うことを何でもハイハイときくようでどうします? そんな子がどんな大人に育つか考えてみてください。私は息子に胸を張って言います、悪ガキ万歳と!」
 売り言葉に買い言葉という側面は否めませんが、それにしても私たちには絶対に思いつかない論理です。私たちの常識は「こんな小さなころから大人の言うことをきかないようなら将来はもっときかないだろう」としか教えません。

 こうした考え方が世間に広くひろまっているとしたら私たちの方が価値転換をしなくてはなりません。しかしそうでないとしたら、私たちのほうから親たちに意識変革を求めなければならないはずです。