「ひねくれ者が人類を救うかもしれない」~多様性こそ生き残りのかなめ

 人類は病原菌によって絶滅することはないと聞いたことがあります。たとえばアフリカ南部のスワジランドボツワナなど、HIVの感染者が35%を越える国のしかも最もハイリスクな職業に従事している女性の中に、HIVにまったく感染しない人がいるというのです。生まれながらHIVに対する何らかの耐性を持った人たちです。

 私たち人間はそれぞれ違った顔や体型を持って地球上にいます。外見だけでなく中身(内臓とか筋肉、血液の成分比率など)も千差万別です。では可能性として、どれくらいの数の異なった人間が生まれるのかというと、統計学的な可能性としては地球上の全砂粒より多いのだといわれています。そのうちのごく少数が今日まで実際に生まれ、死んで行ったのです。この多様性が人類の生存を保障します。どんなに悪質な病原菌やウィルスが現れても、人類はその多様性の中で誰かが生き残るのです。

 人間の行動においても同じことが言えます。みんなが同じ行動を取るとダメなのです。
 映画『ポセイドン・アドベンチャー』ではジーン・ハックマンの演じる牧師が、ホールは危険だと強く訴えても誰もその場を離れようとせず、彼に従って移動した少数だけが救助されます。ところが『デイ・アフター・トゥモロー』では逆に移動しなかった人たちが助かります。

 動けば勝ちなのか動いたら負けなのかは、なかなか分からないところです。しかしそうなると成員の中の「誰かが生き残る」ことを目標とするなら、行動は幾パターンかに分散させるしかありません。たとえば安土桃山時代の真田家のように、父親と次男(真田幸村)を豊臣側に長男を徳川側につけて生き残りを図るというようなことも当然起こってくるのです。

 クラスを見回すと、担任の指示によく馴染み従う子とそうでない子がいます。世間ではよい子・素直な子は担任に愛され、悪い子(?)・素直でない子は嫌われると思っていますがそんなことはありません。どちらも可愛いというか、少なくとも好き嫌いで仕事は勤まりませんから、どちらがどうということもないでしょう。

 ただし頭の痛い子とか、苦労させられる子とかいうのはいます。そして「この子たちがもう少し素直だったら楽なのになあ」と思うことも再三ですが、全員が良い子で素直であったら、それはそれで「多様性が失われている状態」であるとも言えます。ほんとうにその子たちが素直でいてくれたら楽なのですが、そういう子たちがいなくなるときは人類の滅亡も近いときなのかもしれません。

 半分、自分で自分を慰めているような面もありますが、しばしば私は「うん、もしかしたらひねくれ者が人類を救うのかもしれない。だからあの子たちにもがんばってもらうしかない」そんなふうに思って、もう一度彼らのもとに近づいて行こうとするときがあります。多様であることがそれ自体がよい、と思わないわけには行かないからです。