カイト・カフェ

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「怒りのコップ」~これが今にも溢れそうなときは水を注いではいけないと子どもに教えておく

 一貫性のない教育が子どもを狂わせるというのは当然のことです。
 一昨日洗濯物をたたんでいるお母さんに甘えに行ったら優しく抱きしめてくれたのに、昨日同じことをしたらこっぴどく叱られた。今日は邪魔しないように遠くにいたら「可愛げのない子」だとなじられた、そんな調子だと子どもは普通でいられません。情緒の非常に不安定な子の中にはこうした指導にさらされて育ってきた子がいます。
(ちなみに「一昨日」と「昨日」の違い「同じことをしたのに反応が異なる」はダブル・スタンダード、「昨日」と「今日」の違い「どちらをやってもダメ」はダブル・バインドと言います。頭に銃を突きつけて「殺されたくなかったらほんとうのことを言え」もダブル・バインドです。どっちみち生きて帰れるはずはないのですから

 さて、しかし大人も生きている人間である以上、そう毎日同じ情緒でいられるはずもありません。ここはある程度子どもを育て、きちんと大人の顔色を読める子どもにしておかなければなりません。よく「大人の顔色を伺うような子どもにしたくない」などと言いますが、これは「自由闊達に育って欲しい」ということの裏返しで、大した意味のあることではありません。それより現実には、他人の顔色が読めないまま大人になられたら困ります。相手が怒っていようが悲しんでいようが、まったくおかまいなしではやっていられません

 実はよく訓練されているはずの私たちも、子どもの側から見れば理不尽な叱り方をしたりしています。たとえば「授業中騒いでいたA君もB君も注意を受けただけなのに、ボクが騒いだときだけものすごく怒られた」というような場合です。しかし通常、私たちの側にもそれなりの情緒的・状況的理由があるのです。 

 実はA君が騒いだときもB君がしゃべったときも私は耐えて我慢し穏やかに注意しただけなのです。腹が立たなかったのではなく、はらわたが煮えくり返る直前だったのです。そこにC君が最後の火を入れた、だから「煮えくり返っちゃった」、つまり激怒したのです。
 C君は「騒いだこと」と「状況を読まなかったこと」の二重の罪によって懲罰を受けました。A君やB君との間に差があるのは当然です。
 そしてそういうことは、例のような事態が起こったとき、教えていけばいいことなのです。
「なあC君、さっきA君やB君が騒いだときにはこんなに怒らなかったのに、なんでボクが騒いだときにいきなり怒るんだよ、そんなふうに思っているよね(C君が“そんなふうに”思っていなくてもそう言います)。
 実は先生の心の中には『怒りのコップ』があって、さっきまずA君が騒いでコップの半分くらいに『怒り』を注ぎ込んだ。先生は怒らなかった。次にB君が『怒り』を注ぎ込んだ。それでコップのふちまで1cmだ。このときも怒らなかった。あとまだ1cmあったからだ。ところがそのあと残り1cmしかないと言うのに、何とまあキミはそんなことも考えずに『怒りのコップ』にさらに注ぎ込んだ。たった1cmだ。しかし最後の1cmに注ぎ込むからこうなる。

 だからA君よりもB君よりも君が一番悪い、コラーッ!」
 というわけです。

 よくしたもので次回から状況が悪いと感じると、子どものほうから聞いてきます。
「先生、今、『怒りのコップ』どこまで行ってる」

 私は黙って首の辺りで手を横に当て、かさを示します。すると子どもも「今はヤバイ」と思って慎んでくれます。お腹の辺りでかさを示すと、それで騒ぐということもなく、何となくゆったりとした雰囲気で授業を受けてくれます。いわば日常のソシャール・スキル・トレーニングです。

「人間、一昨日と昨日と今日は違うんだ、明日も多少違う(もちろん、あくまでも“多少”だけど)、そこんところ、少しは読み取れヤ」というわけです。