カイト・カフェ

毎朝、苦みのあるコーヒーを・・・

「市場(しじょう)の星」~として私たちを尊重してほしいという要求

 土曜日に妻につき合わされて◯◯市の量販店に行ってきました。まじめにつき合うと大変な人(何しろ彼女は陳列棚の間で、突然ロボコップみたいに直角に曲がったりしますので容易に追跡できないのです)なので、少し商品を見てから入り口付近でなんとなく時間をすごしていました。そしてそのうちに、そこにあった「ご意見承りカード」というのに気がつきました。要するに苦情カードです。カードには苦情内容とともに店長(か、それに次ぐ人)と思われる人の詳細な返答が書かれ、それがファイルに綴じられています。

 中には「◯◯はもっと安くならないでしょうか」とか「△△も入れてください」といった建設的な提案もあるのですが9割方は苦情で、それも店員の態度が生意気だとか声をかけたが無視されたとか、対応が遅いだとかトイレが汚いとか・・・。
 中には「もう二度と来ません」というのがあって、『二度と来ないならわざわざ店の不備など教えず、その不備のために店が潰れるのを待っていたほうがいいのにな』と妙な気持ちにさせられたりもします。

 経営者の方は「お客様の声は宝だ」とか言っていますが、そうした苦情のすべてに丁寧に答える店長(か、それに次ぐ人)のストレスもたいへんなものだろうと、同情を禁じえませんでした。

 店員の態度が悪かったにしても、「ああ、そういう人も世の中にはいるな」くらいで済まされないものなのでしょうか。トイレも、いつ行っても汚いと言うなら別ですが、たまに行って汚れていたとしても「そういうこともあるよな」といった話でしょう。また仮にいつ行っても汚れているなら、それはそういう質の悪いお店なのだから敬して遠ざければいいだけのことです。それをなぜあれほどまでに口汚く罵るのか。ここに資本主義の癒しがたい病根があります

 おそらく口汚く罵る人たちは、店の全面的なサービス向上を求めているのではありません。トイレを含む店舗全般の衛生管理を求めているわけでもありません。この人たちが要求するのは、ひとえに金を払う(今は払わないにしても金を払う可能性のある)自分に、適切な配慮と敬意を払えということなのです。客である私にはそれを受ける当然の権利があると信じて疑わないのです。
 資本主義の社会では金を払うものが神様でなければなりません。市場の星なのです。

 ときおり公務員を罵倒する言葉の中に「税金泥棒」だとか「税金で飯を食っているくせに」というものがありますが、それも同じ立場から出る言葉でしょう。
 問題は“私たちは金を払っている”のに、相応の配慮も敬意も払ってもらっていないという“消費者”の要求です。学校が直面している「保護者の問題」の一部も、確実にこれと連動しています。

 しかしそうだとすると、この「保護者の問題」の一部に対する我々の対応にも、一定の方向づけがされ、むしろやり易い面も見えてきます。それは保護者の個々の要求にいちいち対応しなくてもよいということです。それどころかいちいち対応してことを済ませようとする態度にこそ、相手はさらに怒りを燃やす危険性があるということです。
 そうした人々のほんとうの要求は、口に出される個々の内容ではなく、(納税者としての、あるいは学校に協力する・協力してもいいという親切な気持ちのある)自分に対する、十分な配慮と敬意なのですから。

 まず応えるべきはそちらの方かもしれません。