カイト・カフェ

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「知の霊媒師」~それが教師の仕事

 私はかなり熱心なネット・サーファー(今はこんな言い方はしないか)で相当な時間をコンピュータの前で過ごします。しかしそうやって有用な情報だけを集めていられれば良いのですが、時にはどうしようもないガセネタを掴まされたり、精神衛生上良くない、イラッとさせられる文章に出会ったりすることもあります。

 そんなイラ話のひとつですが、しばらく前、若い、たぶん高校生くらいと思われる子のこんな文章に出会ったことがあります。

「学校の教員だからといって必ずしも尊敬できるとは限らない。オレは尊敬できる教員は『先生』と呼ぶが、他はみんな『さん』で呼んでいる」

 ネットのことですからガセだと思うのですが、もし本当だとしたら気の毒な子です。おそらく周りがみんな「先生」と呼んでいる中で、とんでもない思い違いから、一人で「さん」で頑張っているのですから。

 教員が「先生」と呼ばれるのは必ずしもその人の人格とは関係ありません。もちろん教員が尊敬に値すればそれに越したことはありませんが、尊敬できない人であっても「先生」と呼ばれるべきです。なぜなら私たちに価値がなくとも、私たちの教える内容には価値があるからです。

 たいていの場合、私たちが教え伝えようとすることの大部分は私たちの発見や発明品ではありません。それは過去の先人たちの業績です。

 ソクラテスは「悪法も法なり(悪法であっても法律なので従うべきだ)」と言って法治主義を自分の上に置いて死にました。数学者のアルキメデスシラクサアルキメデス)は砂の上に描いた図形問題を解いている最中に兵士によって図を踏まれ、「私の円を崩すな」と叫んだために殺されます。

 中世の錬金術師たちは生涯誰も金の創出には成功せず、多くが赤貧の中で死んでいきます。しかしたいへんな量の科学的業績を残しました。マルクスは何人もの子どもを死なせながら「資本論」を書きましたし、血を吐きながら歌を詠んだ正岡子規、身を削って絵を描いたゴッホロートレックムンク、自らのレクイエムを完成できずに死んだモーツァルト・・・私たちの教えることはそうした有名無名の犠牲の上に立っているのです。それを知識として、技能として、体験として伝えている・・・私たちはいわば知の霊媒師なのです。

 ロザリオは単なる金属の造形物だから、仏像は木や土でできた偶像だから、大切にすることも拝むこともないという人は愚かです。私たちは金属や木や土の塊を拝んでいるのではなく、それらを通して、その背後にあるものを拝んでいるのですから。

 同じように、授業の始まりと終わりに、教える者と学ぶものがたがいに顔を合わせて「お願いします」「ありがとうございました」というのはそうした先駆者に対して、「今日この場を借りて、私たちはあなたの業績について学ぼうとしています。お願いします。ありがとうございました」と、そういう意味だと私は思っています。