カイト・カフェ

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「ゴリラは何を考えているのか、あの巨大な脳で」~そして日本人は

 ニコラス・ハンフリー(1943―)というイギリスの心理学者は心理学がいつまでたっても人間の心を解き明かさぬことに嫌気がさして、ある日アフリカのルワンダに出かけ、そこで3ヶ月間、ゴリラと生活するようになります。ハンフリーのテーマは「ゴリラの脳は非常に大きくチンパンジーを除く他の陸上動物の中で最大級である。しかしその大きな脳を使って、ゴリラは何をしているのだろう」というものです。

 基本的に脳は問題解決の道具であり、飼われているゴリラで実際にテストをしてみると、かなり難解なパズルを解き問題に直面して解決するというように、彼らの知能がかなり高いことが分かっています。そこでその高い能力は野生社会においても何かの役に立っているに違いないと考えるのですが、一生懸命観察しても、頭がいいと思われる行動はまったく見えません。それどころか森の生活はきわめて単純で、食べ物はふんだんにあり簡単に集められる、避ける方法も知っていれば敵から襲われる心配もない。ただ毎日ゆったりと遊んでいるとしか思えないのです。

 そこでハンフリーはゴリラの気持ちになって考えることにします。すると分かってきたことは、ゴリラは毎日毎時間、社会のあり方について考えているに違いないということです。

 ハンフリーはこんなふうに言っています。
「ゴリラの社会的な生活は外から見ると問題があるようには見えないが、それは彼らがそのことにあまりにも熟達しているからである。彼らはお互いに親密に理解しあっており、それぞれの立場を知っている。しかしそれにもかかわらず、社会的な優劣―誰が食べ物に最初に近づくか、誰が一番いい場所で寝るかといったことをめぐって小さな諍いが果てしなく見られる。さらに深刻な諍いでは誰が誰と交尾するか、いつ若い雄がその家族から出て行くべきか、といった問題をめぐって大きな意見の不一致がある。時には命懸けの闘いになることもある。森はゴリラたちに問題はつきつけないが、他のゴリラの振る舞いは問題を生じうるし実際に生じている」

 そこからハンフリーは次のような結論を導き出します。
「社会的に生き延びるための知能は、物質的な世界に順応するための知能とはまったく次元の異なるものである。 ゴリラは社会集団をつくることによって生き残ってきた。もしゴリラの脳がもっぱらそのような悩みのために進化したとしたら、人間もまた社会の外で生きていくことはできない。人類は同胞に対する深い感受性と理解なしに生きのびることはできないのであり、それゆえに私たちの家族や共同体をうまく動かしていこうとする。その力の源こそがわたしたちの脳なのだ。それこそが私たちの知能の進化の背後にある原動力なのではないのだろうか」
(「内なる目―意識の進化論―」)

 唐突ですがこの話を読んだとき真っ先に思い出したのは、さっぱり発言をせずただ教師の話を聞いている中学生の授業の様子です。私たちは彼らがアメリカ人ばりに次々と手を挙げ、生き生きと発言していく授業を作り上げようとしますが、なかなかうまく行きません。しかし考えてみると大人の社会だって似たようなもので、職員会議や教員同士の会で発言が相次ぐようなときはたいていろくなときではありません。

 もしかしたら私たち日本人は、この巨大な脳を使って会議や授業の最中も社会のあり方を考えているのかもしれません。今ここで手を上げて発言すれば社会的にどのような変化が起きるだろうか、とか。こんな楽な質問なのに誰も手を上げようとしないことにはどういう意味があるのだろうか、とか。